墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

遠江国分寺跡 静岡県磐田市見付

前々々々回までの、4月末の古墳旅の続きを。

当初は予定していなかったが、地図に遠江(とおとうみ)国分寺跡が現れたので立ち寄った。

 

兜塚古墳のあるスポーツ公園から700mほど南、磐田市役所の北隣り。

 

国分寺跡で国の特別史跡に指定されているのは、ここ遠江国常陸国讃岐国の3ヶ所しかないと、後で知った。

特別史跡 遠江国分寺跡
調査
昭和26年に発掘調査され、金堂・講堂・塔・中門・回廊・南大門・土塁跡(後に築地塀と判明)の位置及び規模が明らかになった。
しかし、まだ多くの未調査の部分が残されている。
指定
大正12年に史跡の指定を受け、昭和27年に特別史跡の指定を受けている。
環境整備事業
昭和43年度から遺構の保護を目的とした環境整備事業を実施し、同45年度に完成した。

 

南大門推定地の説明板の後ろの建物は、扉の一部が崩れていたが、かつての資料館だろうか。

南大門跡
南大門は中門から約17.4mほど南に位置している。
この付近は開墾により、基壇まで破壊されているため、規模は不明。瓦が特に多く出土することから、南大門の位置と推定する。

 

その脇にあった遺跡全体の説明板。戦後すぐに全国の国分寺調査にさきがけて発掘調査がなされたことが特別史跡の指定につながったようだ。

遠江(とおとうみ)国分寺
国分寺は今から1250年前の奈良時代(西暦741年)に、聖武天皇の命令によって日本国内60数ヶ所に建てられた。仏教文化を代表する寺院です。僧寺と尼寺が一対となって建てられました。
このなかで遠江国分寺は、往時の威容を偲ぶことのできる数少ない寺院跡のひとつです。昭和26年に全国の国分寺調査に先がけて発掘調査が行われ、昭和27年に国の特別史跡(国宝と同格)に指定されました。この結果、遠江国分寺の中心となる箇所には南より南大門、中門、金堂、講堂がいちれるに並び、金堂と中門を方形にめぐる回廊の西外側に塔があることもわかりました。
昭和43~45年にかけて整備がなされ、往時の建物の基壇などが復元されました。近年、これらの建物をとりかこんで東西180m、南北253mの範囲に柴垣が廻らされていることもわかってきました。

 

近くには中門跡も。

中門跡
中門は金堂から54mほど南に位置している。
基壇は間口16.5m、奥行10.8mの規模と推定される。基壇の上に中門が建てられていたが、門の大きさや構造は不明である。 

 

その北側には、広々とした空間が広がっていた。 

 

南に隣接する市役所のロビーに建物群の復元模型があったことを後から知ったが、調べていると全国遺跡総覧のサイトで、1995年に発行された調査報告書「静岡県埋蔵文化財研究所調査報告第65集・遠江国分寺跡の調査」を閲覧できるようになっていた。

http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/1914

 

上記の報告書6頁にあった復元模型図。

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中央が金堂で手前南の中門から回廊が取り囲み、さらに南に南大門があって左右に築地塀が延びる。金堂の西に七重塔、北側に講堂が建つ。

この配置は、国分僧寺の代表ともいえる東大寺の伽藍配置から東塔院を省略し、さらに西塔の塔院を省略した形式とみなすことができるとのこと(資料65頁より)

 

上記資料15頁の復元平面図。

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伽藍域は100間(180m)四方だが、北側には国分尼寺があり、併せた寺域は、南北およそ700m以上、東西は南の方では約400m以上、北の方では約250~300m程度と推定されるそうだ(同資料64頁より)

 

金堂があった基壇。

金堂及び石段跡
基壇:間口33.6m、奥行21.3m、高さ50cmの規模を測り、金堂の基礎となる。
金堂:礎石及び根石から間口27.6m、奥行14.4mの重層入母屋瓦葺であったと推定される。本尊を安置した主要な仏殿。
石段:正面中央に幅4.5mで7段のうち3段が残されていたが、今は埋め戻してある。

 

以前、川崎市影向寺で体験したような「スマホかざしAR」で伽藍が再現できれば・・・

現在立っている説明板を二次元バーコードにすれば可能では。

(下記は影向寺でアプリ利用時の写真、背景は実写)

http://massneko.hatenablog.com/entry/2016/06/21/210000 

 

金堂の北側に講堂跡。

講堂跡
基壇:間口29.4m、奥行18.3mの基壇が築かれているが、規模は未調査のため不明
堂舎、僧坊、経蔵、食堂、政所、鐘楼:講堂の周辺に多くの建物があったと推定されるが、未調査のため不明である。

 

北西側から見た金堂基壇。

 

金堂跡の北西の木々の下では青春の1頁が展開中のようだったが、その奥(左)に説明板があったので、目立たないようにそっと行ってみた。

 

築地塀跡とあった。

築地塀
国分寺の西境を表すもので、昭和の初め頃には南北270m、幅3m、高さ1mの土塁状の高まりがあったと記録されている。
南は南大門付近まで続いていたものと推定される。
調査によれば、土塁状の高まりの西に堀があり、中から瓦が多く出土していることから築地塀であったと考えられる。
現在は塔から17mほど西に幅2.5mで復元している。

 

 土塁の上は踏み跡が続いていた。

 

土塁上から見た金堂方向。

 

金堂の西側へ行くと基壇があった。

 

塔跡の説明板。 

塔跡
中心礎石(心礎):径2mほどの自然石に、1.7mの円形柱座が刻まれている。
隅柱礎石:径1.5mほどの自然石が今も東西に残る。

基壇:15m四方の基壇の上に、高さ66mに及ぶ七重塔が立ち、紫紙金字の「金光明最勝王経十巻」が納められていたと推定される。

 

大きな中心礎石が残っていた。

 

その南側には回廊跡の説明板。 

回廊跡
金堂と中門の間に方形に回廊が巡っている。
規模:廻廊の規模は、東西49.8m、南北54mあり、その幅は7.8mある。
礎石:金堂西側に残されている礎石から回廊を復元すれば、中柱に壁をぬって境として複廊と推定される。特に貴重な遺構である。

 

植木の間の通路で回廊跡を示しているようだった。 

実家の近くに武蔵国分寺跡があったためか、各地の国分寺跡を訪ねるときにも懐かしいような気分になる。 

 

ちなみに千葉県市原市上総国分寺遺跡では回廊建物が復元されている。