前々回のつづき。
内野上古墳群の3古墳を見た後は、3~400m北西の谷に造られた二本ヶ谷積石塚群(にほんがや つみいしづかぐん)を訪ねた。
開発されたニュータウンの中で調整池として残された場所に、6基の積石塚(古墳)が保存されていた。公園の北側に駐車場も完備。
駐車場から見た二本ヶ谷。時計回りに一周してみた。
詳細な説明板があった。
静岡県指定史跡 二本ヶ谷積石塚群
二本ヶ谷積石塚群は、5世紀後半から6世紀前半の、石で造られた古墳(積石塚)群です。
1954・1957・1995~97・2004年に発掘調査が行われています。
三方原台地の縁にある東西の二本の谷に分かれて分布しており、東谷支群で22基、西谷支群で6基が確認されています。ここ赤門川調整池区域内で、保存・公開しているのは、東谷支群の6基です。
日本国内では土で造られた古墳がほとんどで、積石塚は非常に珍しく、また分布にかたよりがあり、九州北部・四国東部・甲信地方・群馬県などで多く見られます。静岡県内では、二本ヶ谷積石塚群が唯一の積石塚群です。また、構造が朝鮮半島の積石塚と似ていたり、周辺から朝鮮半島に関係する遺物が出土したりする例などから、日本の積石塚の一部は渡来人の墓ではないかと考えられています。
二本ヶ谷積石塚群でも、朝鮮半島に関係する遺物こそみられませんが、石で古墳を造る点や、通常古墳が造られない谷に立地する点などの特徴は、そこに葬られた人々が渡来人であった可能性を示しているといえます。
墳丘の構造
墳丘は、径10~40cmの河原石を積み上げて造られています。形状が不明なものもありますが、その多くは方墳で、墳丘の裾の部分や埋葬施設の周りに大きめの石を何重か廻らせ、規模は一辺3~9m、墳丘高は推定で0.5~1m程度です。
埋葬施設はいずれも竪穴系で、地面を掘り込むものと、地面をそのまま床面にするものがあります。どの積石塚も残存状況が悪いため、上部の構造は不明ですが、発掘調査時の状況から推測すると、直接石で覆っていたのではないかと考えられます。
出土遺物
副葬品は、群の中で最大規模の東谷4号墳で、銅鏡、鉄剣、鉄刀、勾玉等が出土していますが、他は、鉄器・玉類・石製品がわずかに発見される程度で、まったく副葬品のない積石塚も珍しくありません。
また墳丘からは須恵器・土師器が出土していますが、総じて出土遺物は少ないといえます。
見学のご案内
現在見学できる積石塚は、調査記録をもとに再現したものであり、実際の積石塚は、造られた当時の姿がわかりやすいように、失われた部分を一部推定して復元しています。
出土品は、浜北文化センターの市民ミュージアム浜北で展示されています。
構造図の部分のアップ。
その近くにあった8号墳。
8号墳(東谷支群)
1954・1995・2004年に発掘調査が行われた積石塚です。残り具合が極めて悪く、墳丘や埋葬施設の形態は不明です。
墳丘からは、須恵器・土師器に加え、副葬品と考えられる勾玉・臼玉・石製紡錘車が出土しています。
築造年代は5世紀後半と考えられます。
この積石塚は、発掘調査で検出された状態を見学用に再現したもので、実際の積石塚は直下に保存されています。
その先にあった12号墳(東谷支群)
写真付きの説明板。
1995・2004年に発掘調査が行われました。墳丘の残り具合が悪く、上部が失われていますが、一辺約6mの方形の積石塚で、裾の部分には2~3重に石を廻らせています。
墳丘中央部が大きく壊されているため埋葬施設の詳細は不明ですが、全長2.52m、幅約0.6mの規模で地面が掘り込まれています。
副葬品は発見されませんでしたが、墳丘から土師器が出土しています。築造年代は5世紀後半と推定されます。
こちらは市民ワークショップで平成25年に造られた積石塚。東谷12号墳を2分の1サイズで再現している。
13号墳を北側から。
13号墳(東谷支群)
1995・2004年に発掘調査が行われました。墳丘の残り具合が悪く、上部が失われていますが、推定規模5.3m×4.7mの方形の積石塚で、裾の部分には2~3重に石を廻らせています。
埋葬施設は、地面を掘り込み、その周囲に石を廻らせています。規模は全長2.21m、幅約0.6mを測ります。
副葬品は発見されませんでしたが、墳丘から須恵器や土師器が出土しています。築造年代は5世紀後半と考えられます。
13号墳を南側から。
14号墳は円い形に復元されていた。
14号墳(東谷支群)
1995・2004年に発掘調査が行われました。残り具合が極めて悪いため、墳丘の規模や形態は不明ですが、径6m程度の範囲に石が集中しています。
埋葬施設は、地面を掘り込み、その内部の側面に石を配しています。規模は全長2.23m、幅約0.3mを測ります。
副葬品は発見されませんでしたが、墳丘から須恵器や土師器が出土しています。築造年代は5世紀後半と考えられます。
南側から見た14号墳。
現在は4,5m調整池側に下がった場所に3つの古墳が並んでいた。
手前が16号墳、右奥が17号墳。
16号墳(東谷支群)
1957年に墳丘の一部の発掘調査が行われた積石塚ですが、その後消滅したため詳細は不明です。当時の調査記録をもとに、墳丘の推定位置をブロックで表示しています。
墳丘や埋葬施設の形態は不明ですが、墳丘からは須恵器と土師器が出土しています。築造年代は5世紀後半と推定されます。17号墳(東谷支群)
1957年に墳丘の一部の発掘調査が行われた積石塚ですが、その後消滅したため詳細は不明です。当時の調査記録をもとに、墳丘の推定位置をブロックで表示しています。
墳丘や埋葬施設の形態は不明ですが、墳丘からは土師器が出土しています。築造年代は5世紀後半と推定されます。
17号墳の南側から振り返って。奥が16号墳。
そこから振り返ると、ちょうど木蔭に18号墳。調整池に張り出すような立地。
18号墳(東谷支群)
1957・1995・2004年に発掘調査が行われました。東谷支群の中では、現存する最も南の積石塚です。残り具合が悪いため、墳丘の形態や規模は不明ですが、径5.5m程度の範囲に石が集中しています。
埋葬施設は、地面を掘り込まずに、周囲に石を廻らせる構造で、規模は全長2.32m、幅約0.5mを測ります。
副葬品は発見されませんでしたが、墳丘から土師器が出土しています。築造年代は5世紀後半と推定されます。
南側からみた18号墳。
調整池の南側を回る。右の木の下に18号墳。
調整池の西側には1基だけ、駐車場の近くに9号墳があった。
9号墳(東谷支群)
1954・1995・2004年に発掘調査が行われましたが、1954年の調査以後に墳丘東側の半分以上が失われています。現存する東谷支群の積石塚で、1基のみ西側に位置しています。墳丘の残り具合が極めて悪く、上部や東部が失われていますが、裾の部分に石を廻らせた一辺約7mの方形と推定されます。
現在埋葬施設は失われていますが、1954年の調査記録によれば、地面を掘り込まずに、周囲に石を廻らせる構造であったとみられます。その規模は全長約2.6m、幅約1.2mを測ります。
埋葬施設の付近からは、副葬品と考えられる刀などの鉄器の破片が出土しています。築造年代は5世紀後半と考えられます。
9号墳の近くには、この地域の開発前の写真が示されていた。
現在地は、調整池や道路などが整備されて地形が大きく変わっていますが、以前は谷間で、谷底にはいくつもの積石塚が築造されていました。
調整池の西側にただ1基保存されている9号墳付近(現在位置)にたち、昔の写真を見ながら周辺を眺めると、積石塚が点在していたかつての様子を想像することができます。
そのうちのひとつの写真のアップ。ゆるやかに広がっていた谷のかつての様子。
上記とほぼ同じ位置から見た、谷の風景。9号墳を背にして南側を向いている。
これまで見てきた古墳は平地にある場合もあったが台地の縁にあることが多く、傾斜を降りた谷状地形での立地は珍しい。
台地の上はすでに古墳で一杯だったということもないだろうから、渡来人の一部には谷状地形を聖域として好む集団もあったのだろう。
5年前に群馬県富岡市の一之宮貫前神社へ行ったときに、そのような話を聴いたことを思い出した。