墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

大谷古墳 和歌山県和歌山市大谷

前回のつづき。

紀伊風土記の丘(岩橋千塚古墳群)を堪能した後は、再び田井ノ瀬駅まで歩いてJR和歌山線に乗って次の和歌山駅へ、そこから紀勢本線に乗り換えて2駅目の和歌山市駅

ホームにて乗ってきた車両を。

 

隣に加太行きのピンクの南海電車が停まっていた。

 

次の目的地は最寄り駅から徒歩28分とあったので、和歌山市駅からタクシーを利用した。「ようこそ和歌山 徳川吉宗の故郷・雑賀孫市の街へ」と書かれた駅前通りの看板。

 

南海鉄道の存在感が大きい和歌山市駅は再開発工事中。

2019年秋から2020年春にかけて順次オープンしていくようだ。

https://mainichi.jp/articles/20180419/ddl/k30/020/342000c

 

駅前のタクシーに乗って目的地を国史跡の大谷古墳と告げたが運転手さんは知らなかった。乗務暦23年とのことだがここへ行くお客は初めてとのことだった。

スマホが役に立って住宅地のどん詰まりにある入口へ無事到着。少しの間、待っていただいた。

 

どんな墳丘かを想像しながら石段を上る。楽しいひと時。 

 

堂々とした墳丘が現る!

 

前方部の先端についた階段を進む。 

 

前方部の墳頂と奥に後円部。

 

振り返って、和歌山市街の見事な眺め。

 

一段高くなっている後円部へ近づく。長軸は北東を向く。

 

後円部上から振り返ったパノラマ。

 

上り口脇にあった説明板。

国指定史跡 大谷(おおたに)古墳
大谷古墳は、和歌山市大谷にあり、紀ノ川下流北岸で和泉山脈南麓につくられた全長67mの前方後円墳です。昭和32年(1957)から翌年にかけて、和歌山市教育委員会京都大学考古学研究室に依頼して発掘調査を行いました。
発掘調査では、後円部頂から凝灰岩製の組合式石棺が発見され、その中や周辺から装身具、武器・武具・馬具など多くの副葬品が出土しました。
特に馬冑・馬甲(うまよろい)は、高句麗古墳壁画などで知られていましたが、実物としては東アジア地域では初の発見となりました。その後、朝鮮半島南部の古墳から20例以上が発見され、中国東北部に源流がある騎兵装備が、朝鮮半島南部を経由して日本列島にもたらされたことが明らかになりました。ほかにも唐草文の馬具や龍文の帯飾りなど、渡来文化の影響を受けた豊富な副葬品が注目されました。
古墳がつくられたのは5世紀末頃で、被葬者は、出土した人歯から20~30歳と推定され、朝鮮半島などでも活躍した紀氏の武人と考えられています。
大谷古墳は昭和53(1978)年に国の史跡に指定され、また主体部出土遺物は、昭和57(1982)年に一括で国の重要文化財に指定されました。

<大谷古墳とその時代>
今からおよそ1600年前の5世紀(古墳時代中期)には、中国大陸・朝鮮半島から海をこえて日本列島に次々と新しい文化が伝えられました。大谷古墳がある紀ノ川の河口近くは、交流の玄関口となり、渡来文化の影響が強い地域でした。大谷古墳の東の鳴滝遺跡では、遠方へ運ぶ品物などを納めるような巨大な倉庫群がつくられました。
南の楠見遺跡では、朝鮮半島の影響が強い器が見つかっています。また、西の車駕之古址(しゃかのこし)古墳は、朝鮮半島新羅伽耶の有力墓で発見されたものと同様の金製の勾玉が、日本で唯一見つかった古墳です。大谷古墳の主は、車駕之古址古墳の次の世代で、海を越えて大きな活躍をしたようです。
平成25年(2013) 和歌山市教育委員会

 

説明板にあった航空写真。台地の先端、紀ノ川河口を見渡せる立地。

 

古代の様子を描いた地図もあった。紀ノ川を挟んだ対岸に岩橋千塚古墳がある。

 

墳丘からズームで岩橋千塚方向。中央の鉄塔下が大日山35号墳。

 

近隣にも多くの古墳群と、生活の場であった遺跡がある。

大谷古墳が、平地を見下ろせる尾根先端に築かれていることがわかる。

 

築造時期は5世紀末から6世紀初頭。

大谷古墳より前の5世紀中頃に造られ、墳丘から国内唯一の金製勾玉が出土した全長86mの車駕之古址(しゃかのこし)古墳は、ここから4kmほど西に立地する。

 

後円部上には出土遺物の説明板があった。



種類も数も豊富な出土品。

墓に供えた品物が見つかった様子
石棺を納めた穴の中からは、墓に供えた品物が見つかりました。棺の中は後世の盗掘により荒らされていましたが、棺の周りの品物は、埋葬された当時のまま残っていました。多くの武器・武具が見つかったことから、墓の主は武人のようです。
・石棺内
棺の中からは、鏡・ガラス玉・耳飾り・帯飾りなどの装身具と、刀・剣・冑・挂甲などの武具・武器が見つかりました。
・石棺の西側
棺の西には、短甲があり、その下に馬用の甲冑・鐙・鞍などがありました。棺の北には、矛が置かれていました。
・石棺の東側
棺の外には、ミニチュアの農具(鍬・鎌)や工具(手斧・鑿・鉇)の鉄製の刃と、滑石製の玉があり、埋葬の儀式で使ったようです。
・木箱
棺の東には、木箱が置かれ、その中には、馬の口につける轡や、馬の体につける鈴や飾り金具がありました。 

 

 後円部北側裾にも詳しい説明板があった。

国指定史跡 大谷古墳
大谷古墳は、昭和32年(1957)に、京都大学考古学研究室が発掘調査を行い、その後、昭和58年(1983)和歌山教育委員会が史跡整備のための墳丘規模の確認調査を行いました。
背見山の尾根の先端上に築造された前方後円墳で、後円部は北東を向き、墳丘の規模は全長67m、後円部直径30m、高さ6~8mです。後円部の裾には、幅50cmほどの溝が11mにわたって掘られ、29基の円筒埴輪が並べ立てられていました。埴輪は、高さ約50cm、上端の直径が約30cmです。
後円部の頂上に、長さ4.8m、幅3.0m、深さ0.7mの穴が掘られ、その中に石棺が納められていました。石棺は、九州の阿蘇産凝灰岩の組合式で、長さ約2.9m、幅約1.6m、高さ約1.6mです。石棺は家形をしており、蓋に環状の突起があるのが特色です。石棺の内部には朱が塗られていました。石棺を埋設する途中に、石棺の周辺に副葬品として武器・武具を配置したようです。
石棺は発掘調査後、現地に埋め戻され、墳丘は史跡に指定されました。馬冑・馬甲を含めた渡来文化の影響を強く受けた副葬品は、重要文化財に指定され、和歌山市立博物館で一部を展示しています。

出土品<重要文化財
装身具:碧玉管玉(18点) ガラス勾玉(21点) ガラス丸玉(221点) ガラス小玉(約1万点) ガラス棗玉(1点) 垂飾付耳飾(5点) 素文鏡(13点) 四葉形飾金具(27点) 帯金具(7点) 銅鈴(3点) 滑石小玉(229点) 滑石有孔方形板(1点)
農工具:鉄鍬(8点) 鉄鎌(10点) 鉄手斧(15点) 鉄鉇(10点) 鉄刀子(10点) 鉄鑿(8点)
武器:鉄刀(7点) 鉄剣(10点) 鉄矛(5点) 鉄鏃(870片)
武具:衝角付冑(1頭) 短甲(1領) 挂甲小札(約300点) 胡録(28片)
馬具:馬冑(1頭) 馬甲小札(約400点) 鞍(2背分) 壺鐙(2双) 面繋付金具(12点) 鏡板付轡(1具) 鈴付杏葉(3点) 雲珠(2点) 辻金具(4点) 馬鈴(4点)

平成25年(2013) 和歌山市教育委員会

 

甲(よろい)の小札(こざね)や、鏃(やじり)の数百点にも驚くが、ガラス小玉の数はなんと1万点! 発掘調査隊の苦労も偲ばれた。

 

東京に戻ってから上野の東博で、そのレプリカを見た。

模造 馬冑 原品:和歌山市 大谷古墳出土

 

横から。

 

同じく模造の鈴付f字形鏡板付轡(1番)、鈴付剣菱形杏葉(2番)

 

和歌山市のサイトによれば、馬甲などの馬具や垂飾付耳飾など、朝鮮半島南部の影響の強い副葬品が多く出土したことからも、大谷古墳の埋葬者が大和朝廷朝鮮半島と深い関係を持っていたと考えられるそうだ。

 http://wakayamacity-bunkazai.jp/iseki/5167/

 

 

上り口脇の説明板にあった石棺の写真。

立派な棺だったので、中を荒らした盗掘者は外に気づかなかったのだろう。

横穴式石室ではなく、墳丘上に竪穴を掘って豪華な石棺を直接埋納する珍しい形式だったことも、副葬品がよく残った理由になるのだろう。

 

下部の断面図を見ると、墳丘を浅く(70cm)掘り下げ石棺を置き、石棺の上蓋がぎりぎり隠れるくらいにしか土を盛っていなかったようだ。

 

そういえば室宮山古墳(奈良県御所市)も、墳頂の竪穴に石棺を納める形式だった。

http://massneko.hatenablog.com/entry/2016/12/04/000000

 

棺を納めた穴にあった副葬品の位置。

 

後円部から前方部。北西側の斜面。

 

南東側の斜面には下へ降りる階段がついていた。 

 

階段の上から見下ろして。 

 

階段の途中から後円部。

 

同じく前方部。

 

裾に下りるとさらに下る道があった。

 

 

周辺図によれば、6号墳・7号墳(晒山古墳群)への道のよう(だったが、タクシーに待ってもらっていたので次の機会とした)

 

後円部の先には5号墳。

 

 5号墳側に上って、そこから見た大谷古墳の後円部。

 

後円部の北側には広場もあった。

 

降りていくと駐車場も。車で来る際は後円部北側からがお勧め。

 

そこから振り返った後円部。

 

墳丘の北西側面、くびれ部あたり。

 

見上げた墳丘。

 

タクシーに戻ると運転手のさんと地元の方々で古墳談義に花が咲いていた。古墳の隣に住む方は発掘調査の時、姿を表した家形石棺や取材のヘリコプターを見たことを今でもよく覚えているとのことだった。

 

そのタクシーで和歌山市駅へ戻って、南海本線に乗る。

 

同じホームに車止めが2基あって、一方は和歌山港駅行きだった。

 

空いていたので先頭の席に座れた。

紀ノ川を渡る鉄橋(紀ノ川橋)が素晴らしかった。

明治36年(1903)米国A&P・ロバーツ設計、アメリカン・ブリッジ製造、下り線側は国産で大正11年(1922)製とのこと。橋脚は煉瓦造りとのことで機会があれば川から眺めたい。

 

和歌山市から4駅先の淡輪(たんのわ)周辺は全長210mの西山古墳や173mの淡輪ニサンザイ古墳を含む淡輪古墳群があったことにずっと後で気づく。計画で漏れていて古墳群の脇を電車で通過してしまった・・・

次に向かったのは大阪府貝塚市の丸山古墳。車窓に広がる海を眺めながら二色浜駅まで50分ほど一休み。

つづく。