墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

前山A67号墳・A56号墳・A47号墳・A46号墳 岩橋千塚古墳群・前山A地区

前回のつづき。

紀伊風土記の丘の資料館前から周回路を左回りに回ってきての終盤、左端の密集エリアにさしかかった。 

 

横穴式石室入口がコンクリで補強されていたのは前山A67号墳。残念ながら鉄格子があって入れない。 

 

墳裾にあった説明板。 前山A地区で最大の円墳のひとつとのこと。

前山A67号墳
この古墳は直径27m、高さ6mあり、前山A46号墳と並ぶ前山A地区最大の円墳です。
墳丘内には横穴式石室があり、南東方向に入口が開いています。羨門より手前は元の地面に土を盛り、その上に側壁を組んで古墳を造っています。
玄室は長さ3.8m、幅2.3m、高さ3.2mあり、石棚と石梁2枚のほか、床面に埋葬するための区画(屍床)が造られています。玄室の中央に玄室前道があることから、6世紀後半頃の古墳と考えられます。
平成19(2007)年 和歌山県教育委員会

 

鉄格子のすき間から羨道を。右の壁が土圧で大きく曲っているので入室不可となっているのか。

 

その奥の玄室をズームで。板石が積まれた奥壁の前に、前後に板石が立てられた屍床が見える。

 

風土記の丘入口付近の案内パネルに、内部写真が写っている。

 

67号墳を出て枝道を東へ。ゲレンデのコブのような円墳の間を縫うように探索路が続く。

 

まさに群集墳の真っ只中。

 

こちらの石室は入室可能だった。

 

その説明板。

前山A56号墳
古墳時代後期(約1500~1400年前)に造られた直径約13mの円墳です。緑色片岩を積み上げた全長3.88mの横穴式石室が、入口を東の谷に向けて造られています。
この古墳をはじめ、前山A23・24・32・99号墳といった小型の横穴式石室は入口が狭く、石室の天井も間近に見ることができます。
石室の入口に落ちている板状の石は、石室の入口を塞いでいた扉石です。神話などでは、このような横穴式石室の扉石の中を黄泉の世界にみたてて物語がつくられています。
平成21年 和歌山県教育委員会

 

説明にあるとおり、ちょっと入口が狭い。

 

かがんで体を横に向けて入室。

 

玄門の上部。

 

奥壁側。

 

奥壁上部。あまり奥行きがなくて、全体が収まらなかった。

 

奥壁に向かって左角。

 

再び探索路を。 

 

古墳は稜線付近に集中している。

 

こちらは前山A47号墳。

 

こちらは竪穴式石室だった。

前山A47号墳
直径約12m、高さ約2.5mの円墳で、緑色片岩の板石を積み上げた長さ2.04m、幅0.92m、深さ0.65mの竪穴式石室が造られています。石室の床は板石の上に玉石を敷いてあり、一部天井の石が残っています。石室の中からは人骨片が発見されています。
なお、現在は墳丘の盛り土と天井の石が2,3枚外された状態になっています。
平成21年 和歌山県教育委員会

 

深さ65cmなので入室はできない(潜って寝そべれば入れないこともないが・・・)

 

カメラを入れて撮影。 

 

尾根の突き当たり、前山A地区の東端に大きな円墳があった。

 

南東側に回り込むと、こちらも補強された開口部があった。 左の小さな白い箱にあるボタンで玄室に明かりがつくようになっていた。

 

入口近くにあった説明板。

前山A46号墳
6世紀後半に築造された前山A地区最大の円墳で、直径は約27m、高さは約8mあります。
墳丘内には長さ8.5mの横穴式石室があります。玄室は石棚と4枚の石梁のある立派なもので、長さ3.3m、幅2.1m、高さ3.3mの規模があります。石室の入口は扉状の板石で閉じられていました。
墳丘上からは新羅系陶質土器の高坏が4個体分出土しており、この古墳の被葬者が朝鮮半島と繋がりのある人物であったことがわかります。
平成20(2008)年 和歌山県教育委員会

 

崩壊防止のためであろうが、なんと入口左右はコンクリートを塗って固められていた。

上部に半円に穴が開いているのは盗掘の跡?

 

そこをくぐった羨道には大きな扉石が置かれていた。

 

玄門の前で。

 

玄門をくぐって玄室へ入る。玄門の間の、板石が敷かれている部分は”玄室前道”になる。

 

玄室内には角の丸い河原石が敷き詰められていた。

 

立つと、奥壁に向かって目の前に大きな石棚が。

 

石棚の手前で、しゃがんで見上げた玄室。

 

上部にある2本。

 

石棚前から羨道を振り返って。

 

フラッシュで。

 

奥壁に向かって右側。上は石棚。

 

奥壁は、ミルフィーユをスパっと切ったようにきれいな平坦面だった。

 

玄門側の石積み。

 

玄門前から羨道。上部の梁は最初からこの形だったか。

 

A46号墳の墳丘。

 

墳頂と北東側の様子。

 

墳頂から南東側の眺め。

 

3回前のエントリで郡長塚古墳と知事塚古墳をレポートしたが、調べていたらこちらの方のブログで面白い話が紹介されていた。

和歌山市 岩橋千塚古墳群を歩く 知事塚・郡長塚の由来 ( 旅行 ) - いちご畑よ永遠に - Yahoo!ブログ

原典は神坂次郎著「熊野まんだら街道」の第49話・岩橋千塚

熊野まんだら街道 (新潮文庫)

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岩瀬千塚周辺が明治初年、地元の西和佐の村有地になってから(以前は田辺藩の飛び地)、植木を掘りに山へ入った若者が、倒した松の根元に露出した石室に副葬品を見つけると村中が盗掘を始め、警察が動いて逮捕者が出るまでに数十の古墳を掘り返して「お宝」を古美術商に売り払ってしまったのだそう。

その際に、海草郡の郡長や知事までが出土品を狙い、部下を叱咤して盗掘がなされたことを記念してその名が捧げられているのだとか…