墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

和爾下神社古墳 奈良県天理市櫟本町

前回のつづき。

東大寺山古墳の見学後は、その麓にある和爾下(わにした)神社古墳を訪ねた。

 

少しズームして。木々が繁っていてわかりにくいが、後円部に神社を載せた下向き(前方部が北側)の前方後円墳。古墳の向き(中心軸)は東大寺山古墳と同じ。

 

墳丘の西側麓の樹林の広場に長さ2.66mの竜山石の板石が置かれていた。立て札には「石室の天井石」と記されている。

 

縁に十数cm幅の溝が彫られていて、石棺の石材とも考えられている。

 

すぐ隣の杉の根元に、柿本寺(しほんじ)跡の立て札が立っていた。上記のものと同様に、地元の郷土史家の方の手作りのものだそう。

天理市のサイトによると、明治初年に廃寺となった柿本寺は、出土の古瓦から奈良時代に創建されたと考えられるとのこと。
林の中の一画には、柿本人麿の遺骨が葬られたという歌塚もある。

http://www.city.tenri.nara.jp/kakuka/kyouikuiinkai/bunkazaika/bunkazai/1391410307447.html

 

社殿の建つ墳丘へ上って振り返ったところ。 後円部の西側斜面になる。

 

後円部上の大きな拝殿。

 

その後ろの本殿は、桃山期の様式を備えた重要文化財

 

神社についての解説板。

和爾下神社(本殿重要文化財
神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄へ水を引くため高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移し、道も新しく真っ直ぐに作らせたので、この森を治道の森といい、宮と治道社といった。和爾下神社古墳の上に祀られた神社で櫟本の地方にいた豪族の氏神であったが、今は櫟本鎮守の神社である。
この治道社の(春道社とも書く)祭神は素戔嗚命の本地が牛頭天皇であるので、天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係で柿本上社ともいわれた。明治初年に延喜式内の和爾下神社がこれに当たると考証されて社名を和爾下神社と定めた。
今の社殿は、三間社流れ造り、桧皮葺一間向拝付で桃山時代の様式を備え、古建築として重要文化財に指定されている。
祭神は、素戔嗚命 大巳貴命 稲田媛命
例祭は、7月14日 祇園祭、10月14日 氏神祭礼
天理市教育委員会

 

後円部の南西側にも別の石段がついていた。

 

石段の下にあった古墳の解説板。

和爾下神社古墳
東大寺山丘陵の西麓台地上に築造された前方後円墳である。全長約120m、後円部直径約70m、高さ5m、前方部幅50mである。前方部が短く、端部が両側へ撥形に開く特異な形態である。当古墳と、東大寺山古墳、赤土山古墳、及びシャープ総合開発センター内に所在する古墳などにより東大寺山古墳群を構成している。
当古墳から東北約800mには和爾の集落があるが、この周辺一帯は、古代大和政権の一翼をになった和爾氏の本拠地と推定され、東大寺山古墳群は和爾氏の奥津城と考えられる。
内部主体や副葬品は明らかではないが、墳丘西側には石棺材があり、また昭和59年の防災工事に伴う調査において一基の埴輪円筒棺が検出された。これらの遺物により古墳の築造時期は、4世紀末から5世紀初頭と推定されている。
天理市教育委員会

 

墳丘の裾にて。いただいたパンフでは全長105m。100m超は大きな部類の前方後円墳だが、 木々が繁っていて墳丘の全容を認識することはできなかった。

昭和59年(1984)の神社本殿防災工事に伴う発掘調査時に墳丘裾付近で出土した埴輪円筒棺によって、築造時期が古墳時代前期末~中期初頭と推定されるようになったそうだ。

 

このあとは和爾下神社古墳がある樹林を眺めつつ、赤土山古墳へ歩いた。

つづく。