前回のつづき。
峯岸古墳の見学後は、ひとつ北側の尾根筋にある石上(いそのかみ)神宮へ歩いた。 距離は500mほど。西山古墳からは北東に1kmの地点で、布留川が盆地に出る左岸の台地先端になる。
県道から参道へ入る。この車道は新たに造られたもの。
左からの旧参道と合流して境内前の鳥居へ。
鶏が鳴いていた境内。
そこから石段を上った左側に曲って拝殿へ向かう。
そういえば伊勢神宮も鹿島神宮も、 参道は拝殿・本殿の軸と直交する。立地だけが理由でない気がするが、ちょっと調べただけではわからなかった。
真下から見上げた楼門の軒下。
くぐって廻廊の内側から見た楼門。鎌倉末期の1318年に建立された重要文化財。
国宝の拝殿。
平安期の永保元年(1081)に白川天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進した建物と伝えられるが、建築様式からは鎌倉初期建立と考えられるそう(神社のサイトより)
http://www.isonokami.jp/map/12.html
ツアーでいただいた資料によると、石上神宮の御祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、布留御魂大神、布都斯魂大神の三神で、主祭神の布都御魂大神の御神体は「韴霊(ふつのみたま)」と呼ばれる神剣。この剣の霊威によって神武天皇が東征で勝利したと記紀に記される。
石上神宮の始まりは崇神天皇の世に物部氏の伊賀色雄命がこの神剣を祀ったことにあり、垂仁天皇の世には五十瓊敷命が剣一千口を造って神庫(ほくら)に奉納したとも伝えられ、石上神宮は王権の中枢で権勢を誇った物部氏の武器庫としても機能したとのこと。
寄棟屋根のカーブが独特だった。
平側(桁側)は勾配が急で妻側は緩やか。そこをきれいにつないでいる。平側には向拝に迫り出す部分もあって複雑な形をまとめている。
西側から見た拝殿。
以前は本殿がなく、拝殿の後ろは御本地(ごほんち)と呼ばれる禁足地(きんそくち)で中央に主祭神が埋斎され、拝殿に諸神が配祀されていたとのこと。明治7年に時の大宮司によって禁足地が発掘された際に多くの遺物が出土したが、そこに大正2年に現在の本殿が造営された。
http://www.isonokami.jp/about/index.html
廻廊の壁に、石上神宮に神宝として伝世する鉄の剣、七支刀(しちしとう:国宝)の写真があった。
実物は普段は公開されていないが、2013年の大神社展(@東博・上野)で目にする機会があった。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1573
刀身の表裏に金象嵌で61の文字が残っている。
(表) 泰□四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□辟百兵供供侯王□□□□作
(裏) 先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故爲倭王旨造□□□世
表の年号は中国東晋の泰和4年(369)とする説が有力で、裏には百済王世子が倭王旨(し)のために作ったことが記される。
また、この七支刀は日本書紀に神功皇后摂政52年に百済から献上されたとある「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたるとも推測されるとのこと。
この刀が、4世紀後半の東アジア情勢を物語り、日本古代史上の絶対年代を明確にする大変貴重な資料であることを改めて認識した。
http://www.isonokami.jp/about/c4.html
同様に伝わる神宝に鉄盾(国宝)がある。製作技法が古墳時代の鋲留短甲に酷似することから古墳時代中期の作と考えられるもので、こちらは東博の常設展示で見ることができる(撮影不可)
石上神宮の境内建物にはもう一点国宝が、楼門の向かいの石段を上がった場所にある。
摂社 出雲建雄神社拝殿(せっしゃ いずもたけおじんじゃはいでん)
内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の鎮守社の拝殿が、大正3年に移築されたもの。
平安末期の保延3年(1137)に建立され、13・14世紀の改築で現在の構造・形式になったと考えられているとのこと。
中央部分が薬医門のようになっているが、現在は向こう側が崖。
杮葺きの屋根が美しかった。
出雲建雄神社拝殿のあたりは楼門鑑賞のポイントでもあった。
右後ろは拝殿の屋根、さらにその背後に本殿屋根の上部が顔を出していた。
つづく。