墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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ヒシアゲ古墳(平城坂上陵・磐之姫命陵) 奈良県奈良市佐紀町

前回のつづき。

上狛駅から奈良線に乗って木津川を渡ると木津駅で、次の駅から奈良県に入って平城山(ならやま)、奈良となる。

県境となるのが平城山丘陵。盆地との比高差は80m位でそれほど高くはない。

駅名は丘陵の名に由来するそう。

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Wikipedia「山城国」に興味深いことが書かれていた。

京都の南の地名、山城(やましろ)は、平城京から見て「奈良山(平城山)のうしろ」にあたることに由来すると言われ、古くは「山代」と記され、7世紀に「山背国」という表記で国が建てられたそうだ。

また「城」という漢字を「しろ」と読むようになった由来には、桓武天皇が平安京命名の際に、「山河が襟帯して自然に城をなす形勝」から「やましろ」国を「山城国」と書かせたことによるという説があるとのこと。

 

この、由来の由来とものなっている平城山丘陵の南斜面には、佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群が営まれている。

時間に余裕があったら訪ねようと思っていた場所で、平城山に近い古墳群の東エリアには全長200mを超える大きな前方後円墳が3基隣り合う。

 

2年前に奈良に来たときには五社神古墳(神功皇后陵)・佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)・佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)・佐紀高塚古墳(孝謙・称徳天皇陵)を訪ねた。

http://massneko.hatenablog.com/entry/2016/03/18/183000

http://massneko.hatenablog.com/entry/2016/03/19/093349

 

この時も日没まではまだ少し時間があったので訪ねてみることにした。

駅前は開けていて、広場ではサッカーを練習する親子があったが、 タクシー乗り場はなく、徒歩18分を歩くことに。

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JRと奈良バイパスが、平城山丘陵を切り通して抜けていて、丘陵の上には整然と区画された住宅地が広がっているようだ。

 

グーグルマップに従ってバイパス沿いの殺風景な道を過ぎると上り坂に。

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周濠の縁の散策路に出たが、墳丘は木々に隠れてよく見えない。

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小路を挟んだ公園に案内の石碑があった。 

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ヒシアゲ古墳
ここは歴史的風土(平城京跡)特別保存地区です。ヒシアゲ古墳は全長219mの巨大な前方後円墳です。ここは古墳墳丘の外側の周堤と外濠にあたる場所です。2001年の発掘調査によって円筒埴輪列と葺石の様子が明らかになりました。敷石部分が周堤の位置を示しています。また、出土した埴輪を参考にして埴輪列を一部復元しています。

 

ヒシアゲ古墳は2重の濠を巡らしていた。散策路は内濠と外濠の間の堤にあり、そこから円筒埴輪が並んでいる状態で出土した。

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グーグルマップで見ると周堤・外濠も下半分は良く残っていて、全体に盾のような形になっていることがよくわかる。

 

復元された埴輪列。奥が周堤、内濠、墳丘になる。

周堤の総延長は900mを超えるので、千~2千個が並んでいたのだろうか。

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逆側から見た埴輪列。その先の広場がかつての外濠部分。

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その先には陪塚が残っていた。

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周堤には木々が結構密に繁っていて、内濠の水面もちらちらとしか見えない。

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散策路に沿って前方部側へ回る。

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前方部の端に来て急に開けた。

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「仁徳天皇皇后磐之姫命(いわのひめのみこと)・平成坂上陵(ならさかのえのみささぎ)」と記された宮内庁の高札。

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Wikipedea「磐之媛命」の項によれば仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとりで、生年不詳、347年に没。葛城襲津彦の娘、武内宿禰の孫にあたり、皇族外の身分から皇后となった初例とされるが、仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母となっている。

とても嫉妬深く、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮に移り同地で没したそうだ。

 

高札の所で右に折れて、前方部南の堤の上を進む。右側は外濠になるが水面は鏡のようだった。

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前方部の下方、中心軸の位置に拝所があった。

手前の白砂は外濠にかかる陸橋。

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奥の鳥居の先に内濠がある。その先に見えている前方部下端に向かって参拝。 

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奈良県が2010年に作成したサイト「2010年の奈良の実景」にあったヒシャゲ古墳の項には、全長は219m、後円部は径124.5m・高さ15m、前方部は幅145m・高さ13mで、築造時期は5世紀中葉~後半と推定されているとあった。

https://www.library.pref.nara.jp/nara_2010/0687.html

5世紀後半となると、磐之姫命の没年と出ている年(347年)とは百年の開きが出てしまうが…

 

上記の項には、くびれ部の東側には造り出し部があり、古墳の北東部に円墳2基、方墳2基の陪塚を持つことも記されていた。

 

少し退いた位置から。目の前の高まりが外側の(二つ目の)堤になる。

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振り返ると、水上池(みずかみいけ)が広がる。

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あとで水上池について検索していたら、自分が読者のひとりとさせていただいている市原氏の「水辺遍路」の記事に行き当たって大変興味深い情報をいただいた。

・万葉集に詠まれている佐紀沼(佐紀沢)が現在の水上池で、佐紀の由来はカキツバタなどが池に「咲く」ことが転じたものと考えられること(万葉集の美しい歌も紹介されています)

・日本最古級の”ため池”とも考えられること。日本書紀に、西暦6年に全国各地に800の池を築造したとあり、そこに記された大和の狭城池(さきいけ)を佐紀沼とする説があるとのこと。

http://bunbun.hatenablog.com/entry/mizukamiike

 

それらを知って改めて写真を見ると、現地では味わえなかった感慨が沸いた。

池の対岸からが平城宮になる。

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白鳥からの視線。

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