前回のつづき。
太秦駅の近くの踏切を渡っていると丁度京都行きが来ているのが見えたので走って乗車。京都駅で奈良線のみやこ路快速に乗り、宇治で鈍行に乗り換えて上狛(かみこま)という駅で下車、と41.7kmを移動した。
電車の車窓からの椿井大塚山古墳。スマホマップを見ていて大体の位置でシャッターを押した。これでは何だかわからない・・・
上狛(かみこま)駅で下車し、スマホマップで徒歩18分と出ていたルートを歩き始める。周囲は田んぼ。
線路沿いを北へ進む。徒歩ではあまり気が乗らない車道。
上狛駅にはタクシー乗り場はなく、目的地へのバス便はない。
緩いカーブだが結構登る。
下って上った先に入口らしき枝道があった(案内表示は無し)
道が正しいかどうかの少々の不安と、国史跡への大きな期待を胸に下っていくと・・・
いきなり開けて目の前に椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳が現れた。
木津川市教育委員会による順路の看板もある。
こちらは周濠かと思いきや、Wikipedia「椿井大塚山古墳」によれば濠はなく、自然地形を削りだして前方後円形として整えた跡のようだ。
順路の沿って左手に墳丘を見ながら歩く。
後円部をその先から見ている形になる(と後で知った)
パノラマで。歩きながら墳丘の大きさを味わうことができた。
順路にはしっかりした階段がつけられていた。
上った先の墳頂。
少し崩れた墳頂の端から、上って来た方向を見下ろして。
墳頂に立つ説明板。3世紀後半という古墳時代初期の前方後円墳。
史跡 椿井大塚山古墳
平成12年9月6日 国史跡指定
椿井大塚山古墳は、木津川を望む段丘上に立地する古墳時代前期初頭の前方後円墳です。墳丘の規模は、全長約175m、後円部直径約110m、前方部長約80m、前方部墳端幅約76mを測り、高さは後円部約20m、前方部約10m程度であったと考えられます。築造時期は、奈良県桜井市の箸墓古墳を頂点とする定型化した前方後円墳の出現時期(3世紀後半)にあたり、いわゆる邪馬台国の時代の古墳です。
昭和28年(1953)、古墳後円部を横断する鉄道の改良工事が実施され、偶然に発見された竪穴式石室から、三角縁神獣鏡30数面を含む40面近くの銅鏡や、おびただしい量の副葬品が出土しました。三角縁神獣鏡については、邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏の皇帝から賜った鏡とする有力な説があります。
椿井大塚山古墳は、邪馬台国の所在地論争ともからんで、古墳時代成立の鍵を握る記念碑的遺跡です。
平成13年3月 木津川市教育委員会
発見の経緯や出土した鏡については、こちらの日経のサイト「日本の史跡101選」にわかりやすくまとまっている。
http://www.adnet.jp/nikkei/shiseki/contents/017.html
実測図の部分のアップ。
ちなみにこの平面形は箸墓古墳の3分の2サイズの相似形であることを記すサイトもあった(藤井寺市のサイトのコラム「発掘見て歩き」)
http://www.city.fujiidera.lg.jp/rekishikanko/kodaikaranomesseji/hakkutumitearuki/1387502158953.html
なんと後円部の下3分の1あたりを鉄道が真一文字に横切っている。
大量の銅鏡が出土した竪穴式石室は、「現在位置」のすぐ下にすこし斜め(南北軸)に描かれた長方形の区画と思われる。そこに傾斜を示す横線が密に重なっていることが、工事で削ってしまったことを示しているのだろう。
Wikipediaには埋葬施設について下記の記載もあった。
・南北長6.9m、幅1m、高さ3mの竪穴式石室。
・石室内には朱が塗られ、粘土床には10kgを超える水銀朱がまかれていた。
・床には板石・礫・砂を敷き、その上に粘土を施し、長大なコウヤマキの割竹形木棺を安置。
・ 板石、割石を積んで壁を立ち上げ天井には板石を置き、周りを粘土で厚く覆っていた。
椿井大塚山古墳と同様に30面以上の三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳へは、2年前の天理市主催のツアーで訪れた。古墳展示館にはレプリカの大きな石室があったが、椿井大塚山も同様の雰囲気だったのでは。
こちらが前方部側の眺め。
中心軸は西南西を向いており、1km先に木津川が南から北に流れている。
南西方向。
北西方向。
パノラマで。
素晴らしい眺めだった。
木杭にロープを巻いただけだが結構急な切り通しで、下は線路。
竪穴式石室があった辺りか。
そこへ電車がやってくる(ズームで)
かつての古墳の中を通る電車。 車窓から見えていたのは古墳の「腹」だった。
つづく。