墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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垂箕山古墳(仲野親王高畠墓・片平大塚古墳) 京都府京都市右京区太秦垂箕山町

蛇塚古墳の見学後、帷子の辻駅へ戻って駅のすぐ北側、嵐電と山陰本線の線路に挟まれた丘にある垂箕山(たるみやま)古墳へ。

 

駅から50mほどで墳丘の麓に出る。 

 

道路と並行して参拝路が付いていた。

 

 参拝路を上がって振り返ったところ。

 

その先は陵墓なので立入禁止。

 

「桓武天皇皇子仲野親王 高畠墓」と記された宮内庁の高札。

 

木々が繁って墳丘の形はつかめない。

 

生け垣越しの拝所から参拝させていただいた。

前方後円墳の陵墓では、中心軸の前方部の先に拝所が置かれる(ことが多い?)ので、墳丘の位置関係がわかる。

 

地図を見ると、裾が開いた前方後円形で、中心軸は、西北西ー東南東であることがわかる。

 

Wikipediaの垂箕山古墳の項には京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館のリーフレットのpdfがリンクされていて、そこには下記の情報が記載されていた。

垂箕山古墳(仲野親王高畠陵) 前方後円墳 全長約75m 古墳時代後期(6世紀中葉) 前方部が極端に広がる形状をとる。

http://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/190.pdf

 

桓武天皇(737~806)の皇子、仲野親王は792年に生まれ862年に没しているので、上記の築造年代とは300年の開きがあることになる。

 

墳丘の裾越しに望む嵐山。ここから3kmほどの距離。

 

ちなみに、ブラタモリの嵐山編でタモリさんが入室した狐塚古墳(非公開)はここから1.8km北西にある。

 

前出のパンフには秦氏に関して下記の記載もあった。

・5世紀後半に朝鮮半島から移住した秦一族は、新しい土木技術で葛野川(桂川)に大堰を築き、京都盆地西北部一帯を開発して大きな勢力を持った。

・太秦の地名は、秦氏が朝廷に絹などをうずたかく盛り上がるほど献上したことにより「兎豆麻佐(うずまさ)」の姓を与えられたことに由来するとされる。

・清水山古墳・仲野親王墓古墳(垂箕山古墳)などの前方後円墳を始めとする大小200を超える古墳や西野町遺跡・上ノ段町遺跡・常盤仲之町遺跡・広隆寺旧境内などは秦氏一族の集落跡。

・秦氏は奈良・長岡京時代にもこの地域で勢力を貯えていたことが文献史料にも記されていて、桓武天皇は秦氏の強大な勢力を後ろ盾にして都を奈良から長岡京に移し、さらに平安京へと進めたといえる。

 

ここに眠る方も秦一族の有力者なのだろう。

 

垂箕山古墳はすぐ北側に山陰本線の太秦駅があるが、駅に出るには住宅街の中を歩いてぐるっと遠回りをする必要があった。

迷っていたら住民の方に道を教えていただけました。ありがとうございました。 

 

目と鼻の先が秦氏の氏寺・広隆寺になるので、国宝の弥勒菩薩を拝観される際には周辺の古墳も訪れてみてはいかがでしょうか。

弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)については、こちらのサイトに詳しく紹介されていました。

https://butsuzolink.com/koryuji/

 

この時はこの後にも訪ねたい古墳があったので、広隆寺の再訪は次の機会としました。