前回のつづき。
天塚古墳から天神川駅へ戻って嵐電に乗る。
このあたりは路面を走る区間。
やってきた電車は結構混んでいた。帷子の辻(かたびらのつじ)駅で下車。
こちらの古墳は駅から6分の距離。
松竹京都映画株式会社の裏門? 塀の向こうは時代物のセットのようだった。
撮影所の敷地沿いに南へ。
住宅街の中に「異物」が見えてきた。
金網に囲まれて古墳の一部だけが残る。
むき出しの石室は石舞台と同じパターン。
金網越しの説明板。
史跡 蛇塚古墳(右京区太秦面影町)
石室の規模
石室全長:17.8m
玄室長:6.8m
玄室幅:3.9m
玄室床面積25.8㎡
この巨石の石組みは、古墳時代後期末の7世紀頃築造された京都府下最大の横穴式石室である。本来は全長約75mを測る前方後円墳であった。早くから墳丘封土が失われ、後円部中央の石室だけが露出しているが、周囲の輪郭をたどると現在でも前方後円墳の形をとどめている。
棺を安置する玄室の幅は、奈良県の石舞台古墳よりも大きく、また床面積では、三重県高倉山、岡山県こうもり塚、石舞台古墳に次ぐ全国第4位の規模を誇っている。
この太秦を含む嵯峨野一帯は、渡来系の秦一族により開発されたものと考えられており、京都盆地でも有数の古墳分布地区である。蛇塚古墳は、その規模や墳丘の形態からみて首長クラスの墓と考えられる。
なお、蛇塚という名称は、石室内に蛇が棲息していたことから付けられた呼び名である。
指定年月日:昭和52年5月4日(国指定)
もとは全長75mの前方後円墳で、後円部中央の石室だけが残って露出している。
石室部分を取り囲むように円周上に家が並ぶ。
ひとつひとつの石が巨大。
積み上がる石も巨大。
石室の床面積はなんと全国4位、玄室幅は石舞台より大きい!
金網には鍵がかかっていて中には入れない。
が、京都市文化財保護課にあらかじめ連絡をすると中へ入れることを下記のサイトで学んでいた。
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=11000006
近隣の保存会の方々が鍵を管理されていて、文化財保護課に仲立ちをしていただける。
腰をかがめて、いざ内部へ。
玄室へ、緩い傾斜を降りる。鉄骨はあるが少し不安を感じつつ。
羨道部分の上部を振り返って。
その先には荘厳な空間があった。
圧倒的な巨石に囲まれる。 奥壁は今残っているものだけでも2m以上の高さがあるが、築造当初はこの上にも巨石が乗っている。
石の表情。
パノラマで。
ひとつの石でこれだけの大きさ。
手前にせり出してくる迫力。
奥壁前から入口方向。
床面には草もなく、保存会の方々に大事に守られていると感じられた。
今では蛇が棲息する雰囲気はない。
文化遺産オンラインには下記の情報も記載されていた。
・嵯峨野地域では前期古墳が今のところ認められず6世紀代以降の古墳が集中し、その中心となるのが天塚古墳、清水山古墳、蛇塚古墳の3つの前方後円墳。
・蛇塚古墳は嵯峨野で最大規模の後期古墳。大正9年頃までは墳丘の一部を残していたが宅地化で封土を失う。昭和11年に京都帝大考古学研究室が調査を実施。
・諸資料からは前方部を西南方に向けた全長約75mの前方後円墳と復原され、今も宅地区画にその形跡を残す。
・石室は後円部に設けられ東南方に開口。玄室の高さは5m超。側壁・奥壁とも2,3段に巨石を用いており、天井石は一石を除いて失われている。
・奈良県の石舞台古墳等と比較される大きさの石室で、山城の地に繁栄したとされる秦氏等を考える上でも重要な一基。
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/216879
奥壁を背にして左側。
右側。
バランスを保っているようには見える石。
大きな楣石(まぐさいし)の上に一枚だけ天井石が残る。
巨大な楣石だが、今も左右の石が支えている。
かつては巨石で塞がれていた天井。
素晴らしい遺跡を拝見させていただきました。保存会のみなさま、文化財保護課の方々に改めて御礼申し上げます。