墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

平安神宮~吉田神社 京都府京都市左京区岡崎西天王町・吉田下大路町・吉田神楽岡町

前回のつづき。

次の目的地を重森三玲庭園美術館としていたので、粟田口から北へ1.5kmをぶらぶら歩いた。

 

将軍塚からも見えた平安神宮の巨大な鳥居が現れた。

 

青空でよかった。

 

その先では京都市美術館・本館が改修工事中。

 

昨年4月から3年をかけて改修される。

 

開館は昭和8年(1933)で、設計は前田健二郎。

昭和3年に京都で行われた昭和天皇即位の礼を記念して計画が始まったため、当初は大礼記念京都美術館という名称だったそう。

 

九段会館(昭和9年)や東京国立博物館本館(昭和12年)と同様の「帝冠様式:鉄筋コンクリート造の洋式建築に和風の屋根をかけたデザイン」

https://ja.wikipedia.org/wiki/帝冠様式

 

二条通を渡った先の参道は出店で賑っていた。

 

その先に聳える平安神宮の応天門。

 

その説明板。

国指定重要文化財 應天門
應天門は、平安京大内裏の正庁朝堂院の南面正門で延暦14年(795)に造営された鴟尾を置く二層碧瓦葺(みどりかわらぶき)の建物で左右両廊から栖鳳・翔鸞の二楼につながっていた。
この門は、平安遷都千百年にあたる明治28年に往時の様式を復元し、平安神宮の「神門」として建造されたものである。
建坪34.10坪(約112㎡) 棟高60.84尺(18.43m)

国宝の絵巻・伴大納言絵詞にはこの門が炎上するシーン、応天門の変(866年)の場面が描かれている。

 

門の先は広い境内。拝殿(大極殿)の外側周囲にはベニシダレザクラで有名な国指定名勝の平安神宮神苑がある。

が、この時は時間の関係で遠くからの参拝とさせていただいた。

 

境内を回りこんで北側の街中へ。

 

京都仕様の自販機。

 

魅力的な路地が多い。

 

時代の波をくぐってきた街区表示(板)

 

目的地の重森三玲庭園美術館には少し早めに着いたので、すぐ東にあった吉田神社へ参拝した。

 

こちらの参道も結構登る。 

 

途中の枝道。

 

参道の対岸から。

 

その後ろには末社の山蔭神社がある。

 

まずは本宮へ。

 

石段の上、中門にて参拝した。

 

中門の先には斉場所大元宮。その茅葺屋根は八角形。
慶長6年(1601)の建立で、国の重要文化財に指定されている。

正月3日間と節分祭、毎月1日にのみ、中へ参拝できるそう。次回は1日に再訪したい。神社のサイトには大元宮の後ろの本宮の写真もある。

http://www.yoshidajinja.com/

 

由緒はWikipediaによると貞観元年(859年)藤原山蔭(やまかげ)が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まり、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになったとのこと。

鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになり、室町末期に吉田兼倶(かねとも)が吉田神道(唯一神道)を創始して境内に末社・斎場所大元宮を建立した。寛永5年(1665)に江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていたそうだ。

 

吉田神道については大辞林 第三版に以下のように書かれている。

室町末期に、吉田兼俱(かねとも)が大成した神道の一派。神・儒・仏・道四教および陰陽道の関係を説き、神道を万法の根本とし、神主仏従の立場から反本地垂迹説を主張。唯一神道。唯一宗源神道。卜部(うらべ)神道。

 

参道の途中にあった末社・山蔭(やまかげ)神社へも参拝した。 

山蔭卿は日本で初めてあらゆる食物を調理調味づけたといわれ、古来より包丁の神、料理飲食の祖神として多くの料理店や業界の方々の信仰を集めているのだそう。

http://www.yoshidajinja.com/yuisyo.htm#yamakage

 

山蔭神社の境内からの眺め。目の前に京都大学のキャンパスがある。

 

下記のサイトによって、吉田神社は節分厄除け詣り発祥の社であることや、かの吉田兼好は吉田神社の神職・卜部兼明(うらべかねあき)の子に生まれ、後二条天皇に仕えた後に出家して徒然草を書いたということを知った。

https://www.travel.co.jp/guide/article/23763/