墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

東山山頂~粟田神社 京都府京都市東山区粟田口三条坊町・粟田口鍛冶町

前回のつづき。

 

将軍塚青蓮殿と東山山頂展望台との間に、麓に下りる散策路がついていた。

 

このあたりの山林は、近畿中国森林管理局京都大阪森林管理事務所が管理する「高台寺国有林」で散策路が整備されているとの表示。

将軍塚青龍殿からは三条河原町方面へ循環バスが一時間に一本出ているが、最初の便までまだまだ時間があった。散策マップには清水寺口まで20分、知恩院口まで20分、粟田口まで20分等のルート表示があり、次の目的地は北だったので粟田口へ降りてみることにした。

http://www.shogunzuka.com/access.html

 

初めの二差路を右に、将軍塚の裾を巻いていく。

 

切ったばかりの新鮮な切り株。

 

下から見上げる青蓮殿の大舞台。

 

次第に道は細くなる。しばらく進んで振り返ったところ。

 

散策路の終盤で北方向。

 

こちらのお寺の脇に到着。

 

京都市の説明板は判読困難になっていたが、こちらは青蓮院門跡の飛び地境内・尊勝院。

天台宗比叡山の中興の祖、第十八代天台座主であり、法然親鸞の師であっった源信の師、元三大師(がんざんだいし・良源)を祀っている。
元三大師・良源上人は、全国の寺社仏閣で見られる「おみくじ」を考案された方だそう。

 

朱塗りが残る本堂は文禄年間(1593~1596)に豊臣秀吉が再建したといわれているもので、大正4年にこの地に移築されている。

http://www.shorenin.com/ganzan/

 

参道の坂道。

 

石垣や漆喰塀があって趣き深い。

 

降りて振り返ったところ。左の建築計画は地上2階のもの。景観は守られている。

 

さらに降りて参道入口。尊勝院は元三大師堂とも呼ばれている。

 

上記から30m東に、粟田(あわた)神社の参道があった。

 

平安初期の創建で、元禄時代に遡る拝殿があるとの解説。

京都市指定有形文化財
粟田神社 三棟 本殿・幣殿・拝殿
粟田神社は、旧粟田口村の産土神である。江戸時代までは感神院神宮、あるいは牛頭天皇を祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素戔嗚尊ほかを祭神とする。社伝によると、貞観18年(876)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始まり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(1133~18)に再建するが、応仁の乱で焼失し、明応9年(1500)に吉田兼倶が再興したという。
本殿・幣殿は昭和8年の棟札写から、文化2年(1805)6月に焼失後、文政6年(1823)に再建されたことが明らかとなる。建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。
拝殿は、確実な史料を欠くものの元禄16年(1703)に建てられたと伝え、細部形式もこの頃のものと判断される。本殿・幣殿より建築年代は遡るものの、これらと一連のものとして貴重である。
平成8年4月1日指定 京都市

 

真っ直ぐ登る参道。 

 

上りきって振り返ったところ。

 

すぐ脇に神馬の銅像があった。

 

まずは拝殿に参拝。

主祭神スサノオノミコトとオオナムチノミコト。

神社のサイトによれば、京都の東の出入口である粟田口にあって、古来東山道東海道を行き来する人々が参拝し、いつしか旅立ち守護・旅行安全の神として知られるようになったとのこと。

奈良時代より活躍した粟田氏の氏神として創建された社ともいわれるそうだ。

http://awatajinja.jp/history/

 

側面から見た拝殿・本殿。

 

その前には幣殿がある。

 

可愛らしい人形が置かれた神楽殿もあった。

 

境内には多くの摂社末社がある。こちらは吉兵衛明神。

三条神宮道辺りにあった青蓮院の御門の東に奉祀されていた土地の守り神だそう。

 

こちらは太郎兵衛神社。

青蓮院の御門の西に奉祀されていた土地の守り神で、陶芸家・故楠部彌弌氏のご信仰されていたお社とのこと。

鳥居の先の左の階段道は柵で閉じられていたが、後で地図を見るとこのすぐ上が尊勝院だった。

 

太郎兵衛神社脇の煉瓦の擁壁。

 

参道を降りて、三条通旧東海道)に面した粟田神社の鳥居。

 

 通りの向こうにあった家並み。