墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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不知八幡森(八幡の藪知らず) 千葉県市川市八幡

3月上旬の土曜日、市川市の葛飾八幡宮や中山法華経寺などを参拝した。

 

JRの本八幡駅から最初に向かったのは「八幡の藪知らず」と呼ばれる、”一度入ったら出られない”と伝えられてきたエリア。

 

交通量の多い国道14号に面しているが、異界への入口が顔を出しているかのよう。

国道側に玉垣で囲まれた不知森神社がある。

 

安政4年に建てられた石碑。

 

こちらは文政2年?

 

詳しい説明板があった。

不知八幡森(しらずやわたのもり:八幡の藪知らず)
江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。そして「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かず。」とか、「藪の間口漸く十間(約18m)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹薮にして、細竹・漆の樹・松・杉・柏・桑の樹などさまざまの雑樹生じ・・・」などと書かれたりしていますが、一様にこの藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られていました。
入ってはいけない理由については、
・最初に八幡宮を勧請した旧地である。
・日本武尊が陣所とされた跡である。
・貴人の古墳の跡である。
・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。
・平将門の家臣6人が、この地で泥人形になった。
・・・・
と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(1658~61)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。
「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないでしょうか。
またその理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生池」の跡地であったからではないかとも考えられます。
古代から八幡宮の行事に「放生会(ほうじょうえ)」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。
市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。
「不知八幡森」の碑は安政4年(1857)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。
平成16年3月 市川市教育委員会

 

神社の裏が不知八幡森。竹が密生して見通しが利かず、妖しい雰囲気。

 

そばにある歩道橋から。奥行きは20mもない。

通りがかりでお参りする方々は結構おられた。

 

斜向かいには市川市役所があったが、現在新庁舎を建設中。2020年4月に完成予定。