墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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西向天神社(東大久保富士) 紅皿の墓 山吹坂 東京都新宿区新宿6丁目

前回のつづき。

抜弁天の少し南西、台地の縁になっているところに西向天神社(にしむきてんじんじゃ)がある。

 

坂下から。 灯りがつく時間になってしまった。

 

石段を上ると、西向きの社殿がある。

祭神は菅原道真公。 

安貞2年(1282)に明恵上人(1173~1232)が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれたそう。

由緒は、下記の猫のあしあとさんのサイトに詳しい。

https://tesshow.jp/shinjuku/shrine_shinjuku_nishimuki.html

 

北に隣り合って天台寺門宗大聖院があるが、その敷地の一画に「紅皿の墓」があった。

 

紅皿は、太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女の名。

新宿区指定史跡 紅皿の墓
所在地:新宿区新宿6-21-11
指定年月日:平成18年8月4日
太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(一基)、燈籠(二基)、水鉢(一基)、花立(二基)から構成される。
板碑は区内では唯一のものとなる中世の十三仏板碑である。また、板碑の前には十二代守田勘弥や歌舞伎関係者により石灯籠等が立てられ、その存在が広く知られるようになった。
伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようとし、「御拾遺集」の中にある「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
紅皿の墓とされる伝承が江戸時代中頃成立、展開し、幕末維新期を経て広まっていく様子を知ることができ、伝承、文献も含めた史跡として位置付けられ貴重である。
平成18年10月 新宿区教育委員会

 

新しい花が供えられていた。

 

ちなみに、新宿中央公園には二人の銅像がある。

 

面影橋の袂の”現地”には、供養塔を転用した石碑が。

 

「紅皿の墓」は境内北側のこの階段の左、駐車場の端にあり、車道の坂を上がらないとたどり着けない。

 

境内に紅皿の墓があるので斜面には山吹坂もある。

 

その標柱。

山吹坂(やまぶきざか)

この坂上の大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、こう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して、道灌に山吹の一枝を捧げた女性である。

 

坂下から見る山吹坂。

 

神社の南側に天神山児童遊園が隣接する。

 

公園の南西隅、金網の向こうに富士塚があった。

 

児童遊園から東方向。こちらは台地の上。

 

児童遊園の南縁にも台地の上下を連絡する坂道。

 

その坂の途中からの東大久保富士。下から見ると大きい。

これまで見てきた富士塚にも、斜面を活用して下から見上げる効果が発揮されたものが多くあった。台地縁にあると眺めもよくなる。

 

境内南縁の坂を下って見上げたところ。左奥に富士塚がある。

 

帰路は東新宿駅へ。

駅につながる新宿イーストサイドスクエアは、2012年に竣工した2.6haの再開発街区。

イルミネーションが綺麗だった。

 

サンクンガーデンの天井の形状、天窓のカーブが温かい雰囲気をうまく作っているように感じた。

Wikipediaの「新宿イーストサイドスクエア」の項に下記の説明があった。

東新宿駅の南東部約3.7万m²には、読売新聞社社主の正力松太郎の構想により、高さ550mのテレビ塔と下層部のホテル・オフィス・百貨店からなる「正力タワー」が計画され、日本テレビ放送網、三菱電機、大成建設、三菱地所により準備が進められていた。正力の死去により計画は建ち消えとなり、その後日本テレビゴルフガーデンとなったが、2000年に閉鎖(後略)