墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

抜弁天 梯子坂 久左衛門坂 東京都新宿区余丁町・新宿7丁目

前回のつづき。

曙橋から北西に延びる都道302号線は抜弁天交差点で向きを真西に変えて2.3km西の淀橋で青梅街道に合流する。

 

抜弁天は交差点の鋭角が境内となっている。

 

交差点の中を向く御社。

 

境内の解説板。「参道を南北に通り抜けることができたから」が由来のひとつになっていた。自分はこれまで、とげ抜き地蔵と同様のものだと勘違いしていた。

厳島神社抜弁天
・由来
白河天皇の御代 応徳3年(1086)鎮守府将軍源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当厳島神社の始めと伝えられている。(豊多摩郡誌参照)
・江戸時代
参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられている。また山の手七福神を構成する弁財天でもある。
江戸幕府の地誌 大久保絵図(安政4年)には、別当二尊院抜弁天と記載され、他の絵図にはここに稲荷神社があったことも示されている。
徳川綱吉将軍の「生類憐みの令」により、この附近に二万五千坪の犬小屋が設けられていた。

 

抜弁天の交差点からすぐ北側の枝道に梯子坂(はしござか)がある。

 

坂上の標柱。

梯子坂(はしござか)
坂道が急で、あたかも梯子を登るようであったため、梯子坂と名づけられた(新撰東京名所図会)

 

坂上からの眺め。 

 

坂下から。

現状では、傾斜を変化させながら微妙にカーブする優雅な坂。

 

坂の左側、いい雰囲気の民家があった場所は更地になっていた。

 

2016年12月のストリートビュー

 

台地上のお宅の敷地は、斜めの擁壁から迫り出していた。

 

梯子坂の右隣には階段がカラフルな東宝湯。

 

東宝湯の角を南に進むとすぐに、久左衛門坂に出る。

久左衛門坂(きゅうざえもんざか)
この坂は徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂道であったため、こう呼ばれるようになったという。

 

坂上抜弁天。ゆるい蛇行が、いにしえ風。