墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

環状第4号線計画道路・河田町~富久町 刑死者慰霊碑 東京都新宿区河田町・余丁町・富久町

前回のつづき。

大江戸線若松河田駅のすぐそばから南西に延びる環状4号線の計画・工事区間

 

ところどころ囲いがなされた区画がある。始めのうちは計画道に沿うように歩けたが、途中で迂回せざるを得なかった。

 

余丁町都道302号との接合地点から、河田町方向を振り返って(左が計画道路)

 

都道を渡ってその南側へ。細道の先に弁天湯があった。

 

弁天湯の隣の居酒屋「蛍」

 

道路を塞ぐように小屋がある。今度、中へも入ってみたい。

 

その南側には、計画道路で立ち退いた区画が金網で囲まれた不思議な空間が広がっていた。

 

計画道路が外苑西通りにつながる場所には富久クロスコンフォートタワー。2015年竣工、地上55階建て、1230戸が入居。

 

金網は迷路のようだった。

 

都道302号側。

 

新しく建った家は、新たな道に沿って斜めの敷地になっている。

 

かつての路地の跡。

 

こちらはおそらく計画道路にかかっていないエリア。昔は全体がこのような雰囲気だったのでは。

 

路地の奥から振り返って。

 

整然と区画された一帯の北東にある公園に石碑があった。

 

東京監獄の刑死者慰霊碑。グーグルマップにあったので訪ねてみた。

 

昭和39年に日本弁護士連合会が建てたもの。供えられていた花は新しかった。

 

このエリア一帯は区画の方位軸が周囲と異なっている。

 

東京時層地図アプリで見ると理由がよくわかった。かつての東京刑務所(旧東京監獄)の名残りだった。

大正5~10年(1916~1921)

 

上記と同じ地図を少し引いて見ると・・・

 

上記の10年ほど前、明治39~42年(1906~1909)作成の地図では、東隣に市ヶ谷監獄がある。

 

さらに30年ほど遡った明治9-19年(1876~86)では市ヶ谷監獄のみ。

旧東京監獄エリアの区割りは、市ヶ谷監獄の建物軸の方向に合わせたか、昔の田畑の畦をなぞっているようにもみえる。

(左縁は別の地図がつなげられている) 

 

Wikipediaで調べると、「市ヶ谷刑務所」の項で下記のようにあった。

・市谷監獄

伝馬町牢屋敷が明治8年(1875)に富久町へ移転。市谷監獄(明治36年に改称)に。
明治12年(1879)高橋お伝処刑
明治43年(1910)に現在の中野区に移転、豊多摩監獄に。

 

・東京監獄(市谷刑務所)

明治3年(1870)に鍛冶橋門に後の鍛冶橋監獄を設置。
明治36年(1903)に東京監獄となり、鍛冶橋から富久町に移転。
明治44年(1911)幸徳秋水ら処刑
大正11年(1922)に市谷刑務所に改称。
昭和12年(1937)に西巣鴨へ移転、東京拘置所に改称。

 

この地で大逆事件の処刑が行われていた。以下はWikipediaによる。

大日本帝国憲法下の旧刑法では、天皇等を狙って危害を加えたり加えようとすると大逆罪となり死刑も適用された。

大逆事件は明治43、44年に社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたと明治政府が捏造し、幸徳をはじめとする全国の社会主義者無政府主義者を逮捕、起訴、死刑判決を下した事件で、死刑24名・有期刑2名の判決となり、幸徳秋水ら12名が死刑、特赦無期刑で5名が獄死した。

 

花が新しかったのは処刑された1月24,25日に近かったからかも知れない。1911年、今から107年前の「事件」だが。

 

大逆事件という言葉は、国家に罪を捏造され殺された方が悪人であるような、「真逆」の印象にもなる…

山川出版社の「もう一度読む山川日本史」には、明治43年(1910)幸徳秋水らが天皇の暗殺を企てたとして処刑された大逆事件が起こった、とだけの記述になっていた。

 

治安維持法が制定されるのはこの14年後の1925年。

 

石碑の前から東側。行き止まりの先で建物の向きが変わっているので、ここに監獄の壁があったのだろう。

 

別の「縁」には斜めに細道が付いていた。

 

おそるおそる進んでいく・・・

 

と、抜けられた。振り返って。

 

石碑のある余丁町児童公園の都道側の入口。