墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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赤塚諏訪神社(下赤塚富士浅間神社)富士塚 東京都板橋区大門

前回のつづき。

板橋区立郷土資料館から東に台地を上がると、その先で新大宮バイパスをくぐる。 

 

その先の赤塚公園。11月下旬の紅葉。

 

ここから台地の縁に沿って、1.7kmの緑地帯が続く。首都高5号池袋線を走っていると現れるグリーンベルト。

 

赤塚諏訪神社を目指して、公園ではなく台地上の道を進む。

 

公園への連絡路は急傾斜。

 

進んでいくと赤塚諏訪神社。

 

まずは拝殿に参拝。

 

境内にはイチョウの巨木が一対あった。本殿に向かって右に雄株、左が雌株で、雄株は樹高約20m・目通り約5mになる。

 

根元には、百度石があった。

 

こちらでは2月13日の夜に「田遊び」の神事が行われるそうだ。 

諏訪神社と無形民俗文化財「田遊び」
御祭神 建御名方神。
創建年代は不詳であるが、赤塚の領主千葉自胤が、長禄年間(1457~60)に信濃国の諏訪大社を勧請し、武運長久を祈願したと伝えられる。その後寛永7年(1630)頃に十羅刹女を配祀したが、神仏分離の際これを廃した。
江戸時代の江戸名所図会には、「田遊び」神事が記載されている。田遊びは、水田耕作にかかわる神事で、年の始めにあたりその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈る「予祝(よしゅく)」の祭りである。毎年2月13日(旧暦の正月13日)の夜に行われ、本殿と大鳥居間の朝輿の渡御の後、社前に設けた「もがり」の中で一年間の濃厚行事が所作と唱言によって象徴的に演じされている。
昭和51年に徳丸北野神社の田遊びとともに国の重要無形民俗文化財に指定された。
平成6年3月 板橋区教育委員会

 

神門前のイチョウはちょうど見頃だった。 

 

さらに後ずさって鳥居の前から。幟が大きかった。

 

境内の西隣には「たけのこ公園」が。

 

清々しい竹林。

 

竹についてのさまざまな解説が書かれていた。

 

富士塚は神社の鳥居から100mほどに南、新大宮バイパスの道路脇の広場の一画にあった。

 

麓には鳥居が二つ。

 

鳥居の正面には2つの祠。

 

鳥居の右手には少し大きな祠。

 

その右手に塚があった。

 

現地説明板。

赤塚諏訪神社富士塚

富士塚は、一般的には、富士山へ登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとによって、富士山を模して造られた、ミニチュアの人造富士山のことで、富士講が爆発的に広がった18世紀以降に、各地で盛んに造られました。

富士塚の特色は、山麓から山頂にかけて登山道を模した道を設け、それに沿って石碑を配して、富士山各所の礼拝所を表現していることや、「黒ボク」と呼ばれる富士山の溶岩石を取り寄せ、使用している点にあります。また、富士塚への登山行為自体が富士山登拝と同様の御利益があるといわれています。なお、各地の富士塚では毎年7月1日前後に、富士山の山開きに合わせて祭礼が行われている所もあります。
当富士塚を造成した富士講「丸吉講」は、新座郡中沢村(現在の新座市)出身の浅海吉右衛門が開いた講中です。当地(旧下赤塚村)へとその丸吉講が伝播した時期については、詳らかではありませんが、和光市白子熊野神社境内の富士塚にある、明治3年(1870)に奉納された鳥居には、他地域の丸吉講の講中とともに下赤塚の人びとの名が見られることから、それ以前の幕末期には当地に伝播していた可能性が考えられます。
また、この富士塚の造成時期については、志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」へ奉納された明治5年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「下赤塚仙元富士山」と表記されていることから、それ以前の段階だと考えられます。
当富士塚は、平成22年度に区の登録記念物(史跡)となりました。

平成23年8月 板橋区教育委員会

 

頂上までは結構長いアプローチ。

 

こちらが頂上の祠。

 

登ってきた道を振り返って。

 

頂上からは西方向が開けていた。

 

北側は家が建て込んでいたが、かつては周囲を遠くまで見渡せたであろうと想像できた。

 

帰路はバスで高島平駅へ。