墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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富賀岡八幡宮・砂町の富士塚 東京都江東区南砂

今回も昨年秋に訪ねたところから。

「砂町の富士塚」がある富賀岡八幡宮は東西線南砂町から徒歩10分の場所にある。

 

御由緒によれば今は深川にある富岡八幡宮が8世紀半ばに最初に勧請されたところでした、江戸初期に八幡像が深川に移ってこちらは元宮となっている。

富賀岡八幡宮後由緒
当宮は深川富岡八幡宮の元宮として、また、砂村総鎮守として広く知られており、その創建は古く、藤原鎌足の孫、藤原豊成卿が下総守に任じられて下向のみぎり、天平勝宝元年(749)に創立された区内屈指の古社であります。
当宮と深川富岡八幡宮との関係は、この地が宝六島と呼ばれていた寛永初期、京より永代島に移り暫く当宮を拠点に活動していた長盛法師が、当宮に奉祭されていた「八幡像」を、深川八幡宮に移し勧請したことによります。この「八幡像」は、源三位頼政、千葉氏、足利尊氏、鎌倉公方基氏、管領上杉氏から太田道灌へと伝えられ、特に道灌より厚い崇敬を受けていたものであります。
享保年間には、境内には桜、松あわせて三万本が植えられ、八代将軍吉宗公お手植えの矢竹なども存在しておりました。この風光明媚な様子は江戸名所図会や安藤広重の名所江戸百景にも描かれ、当時が江戸の景勝地であった事を窺い知ることができます。現在も境内には都内でも数少ない石造の富士塚や芭蕉句碑、鳳卵石などが残されています。
また、この地の由来は、万治2年に開拓者である福井鯖江の砂村新左衛門により新田開発が完成し、砂村新田と名付けられ砂村の地名が生まれました。
御祭神 応神天皇(誉田別皇)
    比売大神
    宇迦之御魂大神 外五柱
御創建1260年記念 富賀岡八幡宮奉賛会

 3万本の桜・松とはさぞかし壮観であったろう。現在の三保の松原で、松の本数が約3万になるようだ(Wikipedia・三保の松原より)

 

まずは拝殿に参拝。すでに陽は落ちてしまった。

 

拝殿の後ろに境内社の浅間神社があり、その隣に富士塚があった。

 

高さ5m位と思われる立派な山容。

柵等はなく登山道もあるが「登らないこと」と書かれていた。

 

麓に立つ説明板は石碑。

砂村の富士信仰の象徴
江東区指定有形民俗文化財
砂町の富士塚
南砂7-14-18 富賀岡八幡宮
平成17年3月28日指定
富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保4年(1833)までに、富士講のひちつ山吉講によって造られた富士塚です。
江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。
砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道廻りの道が作られています。右(北)には宝永山を現す小さい高まりを作り、塚の左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を配すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。
塚はもともと30mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和8年(1933)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボク石)で固め、昭和37年(1962)現在地に移築されました。
塚に付随している数多くの富士講碑により、現代まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。
平成18年2月 江東区教育委員会

 

昭和30年頃の写真があった。

 

ゴツゴツした溶岩は迫力大。

 

多くの講碑が置かれていた。

 

金属板の新しい講碑も。

 

傾斜がなだらかな麓もしっかりコンクリで固められている。宝永山や胎内も造られているようだが、暗くなってよくわからない状態に・・・

7月1日には山開きが行われるようなので、再訪したい。

 

砲弾(?)も置かれていた。

 

帰路の南砂町駅入口。地下へ向かうが登り口。

 

その背面にはメトロスナチカという南砂町駅改良工事インフォメーションセンターがあったが17時で終わっていた。こちらも訪ねてみたい。