墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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2つの袖摺坂 東京都新宿区横寺町・千代田区一番町

グーグルマップで袖擦坂を探すと2ヶ所が検出される。

どちらも都内の地下鉄の駅出入口のすぐそばだった。

 

ひとつは地下鉄大江戸線の牛込神楽坂駅。

 

A2出口を出ると通りの向かい側、石垣の右に石段があった。

 

石積みと木塀の間を通る。

 

標柱の説明文。

袖摺坂(そですりざか)
俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺り合わしたという(「御府内備考」)

 

細く短い坂ですぐに坂上に到達する。

 

上から振り返って。 

 

この3本のポールは、いろいろな役に立っていそう。

 

石段の上を横から。さらに高低差があることがわかる。

 

大久保通りを見下ろせる場所。ガードレールが細いので浮遊感を感じられる。

左に袖擦坂。ここから右に進むと・・・

 

大久保通りに合流する。袖擦坂は左右の道をこの奥でつなげている。

 

 

もうひとつの袖摺坂は地下鉄半蔵門線の半蔵門駅の近く。

 

A5出口の前の交差点から緩く広く上る。

 

坂上近くに標柱がある。 

 

こちらには別の袖擦坂への言及があった。

この坂を袖擦坂といいます。むかし、この坂道は行きあう人の袖と袖がふれあうほどせまいのでその名がついたといわれます。幅のせまい道をこのように名付けた坂は他にも見られます。

 

坂上から見た袖擦坂。

 

坂上の交差点の南西側の角に、滝廉太郎のレリーフがある。

 

説明文も。 

都旧跡 滝廉太郎居住地跡
滝廉太郎は、この交差点から西に100m程の所(一番町6番地ライオンズマンション一番町第二)に、明治27年(1894)ごろから34年(1901)4月まで居住していました。今日でも愛唱されています名曲「花」「荒城の月」「箱根八里」「お正月」「鳩ぽっぽ」など、彼の作品の多くはそこで作られました。
滝廉太郎は明治12年(1879)東京に生まれ、幼少期より音楽に対する才能を示し、同27年東京高等師範学校付属音楽学校専修科(後の東京音楽学校)に入学しました。優秀な成績で卒業した彼は、母校の助教授として後進の指導にあたりました。
明治34年、文部省の留学生としてドイツのライプチヒ国立音楽賀っこに学びました。しかし、病を得て帰国し、大分の父母のもとに帰り療養しましたが、家族の手厚い看護もむなしく同36年(1903)6月29日死去しました。日本の芸術歌曲の創始者ともいわれています。
滝廉太郎が、一番町に暮していたことを偲び、毎年9月下旬には地元町会の主催で「滝廉太郎を偲ぶ会」がこの場所で開催されてます。
平成17年8月 千代田区教育委員会

 

レリーフを背にして。 右後方に下りるのが袖擦坂。

 

上の写真の右奥に下るのは五味坂。雰囲気がよい坂で、300m程先が千鳥ヶ淵になる。