墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

紅葉坂界隈 東京都台東区谷中・荒川区西日暮里

今回も昨年12月の写真。

谷中霊園付近から日暮里駅へのルート。

「上野桜木あたり」あたりの谷中保育園前で。

 

この、たわわの銀杏に目を奪われた。

 

谷中霊園を抜けると山門がモダンな天王寺

 

低い傾斜の屋根が古都の雰囲気の境内。

 

境内には谷中大仏(天王寺大仏)

 

説明板によれば元禄三年(1690)に建立された銅製の釈迦如来座像。昭和8年に修理を受け、基壇が新築されて現在地移っている。

 

松の雪吊りが美しかった。

 

門前にあった旧町名由来案内。

下町まちしるべ
旧谷中天王寺
本町は江戸時代には、その大部分が天王寺の寺域であった。天王寺鎌倉時代後期、日蓮聖人に帰依した土豪関長耀煖の草創にかかるといわれ、もとは長耀山感応寺と号した。のち元禄11年(1698)幕府の命によって同寺は日蓮宗から天台宗に改宗、さらに天保4年(1833)には、寺号も護国山天王寺に改称された。明治時代初期、天王寺の広大な境内地は、一部を残して東京府に移管され、共同墓地の谷中霊園となった。
本町の起立年代は、谷中各町の中では新しく、明治24年(1891)頃といわれている。谷中霊園天王寺前町屋および隣接する銀杏横町、芋坂が合併され、谷中天王寺町と命名された。町名はいうまでもなく、天王寺に由来している。
昭和42年(1967)の住居表示の実施で全域台東区谷中7丁目になった。

 

そのお姿は境内の外からもよく見えた。

 

お寺の壁に沿って進むとすぐに線路際に。

 

そこから続く階段坂が紅葉坂だった。

 

坂上の標柱。

もみじざか
坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵坂」ともいった。その命名は不詳。江戸後期の国学者、山崎美成は「金杉日記」に、「天王寺うら幸庵坂下、又三しま社のほとり秋色尤もふかし、林間に酒を煖む」と記している。この記事によると、幸庵坂の名は江戸時代すでにあったことが知られる。

 

昔ながらの石垣。

 

降りた先には日暮里駅。

 

駅入口への跨線橋。 

 

振り返っての紅葉坂

 

北方向への小路もあった。先は階段のみなので、目の前の自転車は紅葉坂の利用者となる。

 

ホームの屋根を支える鉄材はレールの再利用か。 

 

反対側は、隣のホーム屋根の形状が当初から変わったようで、不自然に切り取られていた。

 

跨線橋は崖側のホーム屋根を切り通すように架けられている。

 

日暮里駅の南口。京成線や舎人ライナーとの乗り換えがある北口の賑わいとは大違い。

 

跨線橋の先は日暮里駅東口に降りていく。 

 

日暮里駅東口広場はビルの谷底のようだった。

 

そこに建てられた太田道灌の像。

 

橋本活道氏の手によるもので「回天一枝」と題されていた。

 

右手は手綱を握っている。

 

日暮里駅の山手線ホームにて。目の前で新幹線がトンネルに出入りしていた。