前回のつづき。
北千住駅の西側は鉄道と国道4号の間、旧日光街道に沿って数多くの細道が残っていた。
こちらのガイドブックにも詳しく載っている。
複雑な構造をしている北千住駅の南西側を出ると飲み屋が沢山入った細長い建築物があった。
ところどころ反対側への抜け道がある。
抜けた先には飲み屋街。
NTT千住ビルへ向かう途中。正面、道が盛り上がっているところに旧日光街道が通る。
上記の左の囲いの内側では重機が稼働中。
足立都税事務所やトポス北千住店などがあった場所で再開発事業が進んでおり、2019年9月に地上30階、高さ110mのマンション複合施設が建つ予定とのこと。
http://skyskysky.net/construction/201932.html
囲い壁に「森鴎外旧宅の地」の解説があった。かつてここで鴎外がここ千住に居たこと、鴎外の号が千住の地を意味することを初めて知った。
森鴎外旧宅の地
・森鴎外が若き日を過ごした地
鴎外の父、森静男は明治12年(1879)に、この地に橘井堂医院を開業し、森家の住居になりました。鴎外(林太郎:1862~1922)は帝大医学部を卒業後、20歳から28歳にかけてここを住所としました(23~28歳はドイツ留学) 医師としての開業免許も明治14年、20歳のとき千住の住所でとり、ここから陸軍病院まで人力車で通いました。
・「鴎外」の号=千住
隅田川にあった、かもめの渡し(現、白髭橋付近)の外という意味で、千住の地を意味しています。もとは、鴎外の師で千住在住の漢学者である佐藤元萇の子、斎藤勝寿の号でしたが、林太郎が使用して定着したものです。
旧日光街道、千住ほんちょう商店街。
駅前通りから北は宿場町通り商店街。
かつて街道に面した建物は間口が狭く奥に長かった。その区画に従って街道から左右に延びる細い枝道が今でも多く残っているのが北千住の魅力。
枝道を入ったところに本陣跡の解説が。
本陣跡や見番跡などの位置が示されていた。
本陣跡に近い100円ショップの店先。
道行く人になでられている猫がいた。
ここからは右へ左へと。
大概の細道は先へ続いていて抜けられる。
覆い屋根のあるタイプ。
行き止まりのように見えるタイプ。
石畳のあるタイプ。
樹木が覆うタイプ。
突然お社が現れることも。
トタン壁の道。
思わず引き込まれる毎日通り飲食店街。
街道沿いには風情のある木造店舗も点在する。
こちらはバー?
こちらは伝馬屋敷の面影を伝える横山家住宅。
説明板がある。
横山家住宅
宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行きが深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
敷地は、間口が13間、奥行が56間で鰻の寝床のように長い。
横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われている。間口が9間、奥行が15間あろ、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。
広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。
平成2年10月 東京都足立区教育委員会
その向かいには千住絵馬屋・吉田屋。
こちらは洋品店。
こちらはちょっと修復されればいい雰囲気になるのでは。
こちらは店ではなさそう。
こちらは木造家屋+洋館?
通りの北の突き当たり、荒川土手のすぐ手前に今でも続く名倉医院があった。
説明板で門前に広いスペースがある理由がわかった。
千住名倉医院
名倉医院は江戸時代以来、骨つぎといえば名倉、名倉といえば骨つぎの代名詞になるほど、関東一円に知られた医療機関であった。下妻道に面し、旧日光道中や水戸佐倉道分岐点を間近にして便がよかったので駕籠や車で運ばれてくる骨折患者でひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などのたまり場であった。
名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で享保年間(1716~36)頃千住に移り、明和年間(1764~72)に「骨つぎ名倉」を開業したと伝わる。
現在、江戸時代から昭和中期まで盛業時の医院の建物が保存されている。昭和59年足立区登録記念物(史跡)となった。
かつて名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる金町屋、万屋、成田屋、大原屋、柳屋等の下宿屋があって、その主人が名倉医院で治療に当たる医師及び接骨師を兼ねていた。
平成23年3月 足立区教育委員会
こちらは北千住駅構内にあった顔出しパネル。ほそ道巡りを楽しませていただきました。