墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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弾正橋公園(楓川弾正公園) 東京都中央区八丁堀

前回エントリの旧弾正橋(重要文化財)に関連して、現在の弾正橋(だんじょうばし)が中央区に残っていることを知ったので行ってみた。

地下鉄宝町駅と八丁堀駅との間にあって上下を高速に挟まれた橋で、これまで橋の名前も知らずに何度も通った場所だった。

橋の東側から。

 

橋の西側から。四隅に親柱が立っている。道路に沿って北側に公園があり、一服する人々で賑わっていた。

 

その公園内に旧弾正橋のミニチュア(モニュメント)があった。

 

鉄骨の細かいところまでよく表現されている。

 

菊の御紋も!

 

夜の見学は止めたほうがよさそう。

 

橋の南側の歩道には石碑があった。

 

その解説。

弾正橋
弾正橋は古く江戸寛永年間には既に、楓川上に架かっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があったのがその名の由来のようである。弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図会に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。
その後たびたび架替えられたが、明治11年に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡一丁目に保存され、昭和52年に国の重要文化財として指定され、平成元年にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等どの歴史的貴重さを増している。
現在の橋は大正15年12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年の東京オリンピックの時に、弾正橋の両側に公園が造成され、平成5年2月に公園と一体化された、くつろぎのある橋として再整備された。尚、公園にあるモニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。
橋梁の諸元
形式:ラーメン橋台橋 橋長:33m 有効幅員 23.2m(車道16m、歩道3.6m×2) 建設年次:大正15年12月 復興局施工

 

江戸名所図会の「三ツ橋」の図。運河の十字路。右下が弾正橋。

 

東京時層地図アプリで見ると(文明開花期)、橋をしっかり確認できる。

 http://www.jmc.or.jp/app/iphone/tokyo/download.html

 

関東大震災までには新しい弾正橋ができて、南側の運河と真福寺橋は無くなっている。

 

戦後までに南側に新たな運河ができた。旧弾正橋は昭和4年に富岡八幡宮隣に移設されている。

 

現在はかつての運河跡を高速が通る。南北のルートは堀の底に、途中で左に折れるルートは高架上になる。

 

現在の弾正橋から南側の様子。

 

高架ルートはここで西に折れる。

 

左の建物下の石垣は運河時代の雰囲気もあるがどうでしょう。

2つ先のビルの辺りに旧弾正橋が架かっていたはずだが、今は堀幅も広がっていて名残りは見当たらない。

 

高速の西岸の消防署。この裏手あたりに架かっていたか?

 

消防署の南側に「新金橋」が架かっていた。

 

新金橋から金網越しに北側を。目の前の歩道橋は警視庁高速道路交通警察隊のもので一般は渡れない。

 

新金橋から50mほど西の歩道上に解説板があった。

 

その解説。このあたりが白魚橋の袂だったのだろうか。

三つ橋跡
所在地
弾正橋:中央区京橋2・3丁目~八丁堀3・4丁目
白魚橋:中央区京橋3丁目~銀座1丁目
真福寺橋:中央区銀座1丁目~新富1丁目
ここから北方約30mの地点には、明治の末年まで、北東から楓川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西に流れる三十間堀が交差していました。この交差点に近い楓川に弾正橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かり、この三橋を三つ橋と総称していました。
三つ橋は、すでに寛永9年(1632)作成といわれる、「武州豊嶋郡江戸庄図」に図示されていますが、橋名の記入はなく、橋名についても幕末までいろいろ変遷がありました。
明治末に真福寺橋、昭和34年に白魚橋がいずれも河川の埋め立てによって廃止され、弾正橋は昭和37年、高速道路工事によって現在の姿となりました。
平成8年3月 中央区教育委員会