墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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国指定重要文化財・清洲橋

前回のつづき。

箱崎ポンプ所の前から、ほんの150mで清洲橋の袂に出る。

 

解説が刻まれた石碑。信長の清洲城とは無関係。

清洲橋(きよすばし)
清洲の名は、深川の清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋であることに由来し、橋の新設にあたって公募されたものである。
深川の清澄町は、わが国セメント工場の発祥の地であり庭園でも知られ、また芭蕉庵跡にも近い。日本橋中州町は、明和8年(1771)に埋立てを開始して、隅田川畔の繁栄の一翼を担った。その後、中洲埋立地は取り壊され、元の水浸地になるなど、複雑な歴史をもつが、明治19年(1886)に再び埋立てられ新しい土地として生まれかわった。この二つの町を「中洲の渡し」が結んできたが、大震災後の復興事業で、ドイツのケルンの大吊橋に範をとって、女性的な曲線美をもつ吊橋をかけることとなり、昭和3年(1928)この橋は完成した。第二次世界大戦空襲の中でも、多くの被爆者を救って、幹線道路の橋としての役割を果たしてきている。
昭和58年2月 東京都

 

川岸に隅田川テラスという公園があって、川面近くに降りられるようになっている。

橋の下から下流方向。

 

見上げるほうが迫力がある。

 

対岸に向かって橋の底面を。

 

重文指定後の説明板。石原旧都知事のサインがあるが、内容は専門用語が多く難解だった。

日本国重要文化財 清洲橋
東京都知事 石原慎太郎
[諸元]
橋長:186.2m 幅員:25.9m 上部工:鋼製三径間補剛吊橋
[所有者] 東京都
[指定年月日] 平成19年6月18日指定(建常2500号)
[指定の意義]
清洲橋は、関東大震災復興事業によって建造され昭和3年(1928)3月に竣功した。
清洲橋の特筆すべき点として、上部構造は日本国内では珍しい橋端部に水平力の及ばない自碇式連続補鋼吊橋で塔柱から吊るされた吊鎖を橋端部において主桁と連結し、主桁は左右の橋台に碇着し全支間にわたって等間隔に配された吊材で吊鎖と主桁を繋ぐ構造である。放物線状の優美な外観の吊鎖は、高張力マンガン鋼のデュコール鋼を吊鎖に用いるなど、洗練された造形によって、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚と、締切工法による橋台二基からなる。
建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興局土木部長太田圓三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師鈴木清一らである。

 

きれいなブルー。 

 

放物線状の吊鎖は鋼板を重ねたものだった。

 

橋上からのスカイツリー。

 

道を跨ぐアーチも美しい。

 

リベットが打ち込まれた塔柱。

 

なんとなく板の裏側が想像できる?

 

橋をまさに吊っている箇所には巨大な六角ナットがあった。