墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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龍閑川(竜閑川)跡 今川橋跡 山梨中央銀行東京支店 丸石ビルディング 千代田区と中央区の境界

前回のつづき、龍閑川(りゅうかんがわ)跡を辿る細道を歩いた。

以前こちらの本で紹介されているのを見て気になっていたルート。

massneko.hatenablog.com

 

西の起点は旧龍閑橋の橋桁が展示されている「鎌倉児童遊園」

そこから東側。

 

最初に中央線の高架をくぐる。脇に重層的なお宅があった。

 

角石のさらに外側に建っていた。

 

ガード下は工事が入っているが、いい雰囲気の店がある。

 

都心のネコ。

 

中央線と山手・京浜東北線の高架の間に、真新しい上野東京ラインの高架が聳える。

 

さらに先の新幹線の高架下から振り返って。

 

さらに先から振り返って。大胆な看板があった。

 

中央通りに出る直前に「今川橋跡」の石碑が。 

 

1kmほど続く竜閑川は、かつて江戸市中の商品流通の中枢であったとのこと。

今川橋の由来
元禄4年(1691)この地、東西に掘割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。初めは神田堀、銀堀(しろがねぼり)、八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上竜閑が平川と掘割の接点に住んでいたので竜閑川と呼ばれるようになった。
この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きく神田の職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。
この掘割は、神田と日本橋の境界として11の橋梁があり、この地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり「今川橋」と名づけられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち初めて渡るのが今川橋であった。
昭和25年竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され360年の歴史を閉じた。
平成元年1月吉日鍛冶町1丁目町会 場所提供社 江原富夫氏 

 

中央通りを渡って対岸から振り返ったところ。 今川橋跡の碑は右のビルの手前角にある。

 

斜め右手を見ると昭和4年(1929)竣工の、現・山梨中央銀行東京支店の建物。

千代田区観光協会のサイトに解説がある。

山梨中央銀行東京支店

 

中央通りから、龍閑川跡・東側の様子。

 

上の写真の左手側に、昭和6年(1931)竣工の丸石ビルディングが建っている。ファサードは一本北側に並行する道に。

設計は後に霞が関ビルディングも手掛けた山下寿郎。

1階の石壁には連続するアーチが、2階より上はスクラッチタイルの外壁で、軒を巡る蛇腹の装飾が見事だった。

ここも、千代田区観光協会のサイトの解説を参考に。

丸石ビルディング

 

入口には係りの方がいて内部の見学はできないとのことだった。

 

入口脇のライオン像。ほかにも多くの動植物像があしらわれていた。

 

龍閑川跡に道に戻って、少し進んで振り返ったところ。中央通りに向けて数十センチ盛り上がっていて、橋の名残りが感じられた。

 

タバコ休憩の方々が多く見られる川跡道を進むと、道沿いに社と鳥居が一体化した神社があった。

 

福田稲荷神社。創建711年とは非常に古い。

福田稲荷神社の由来
昔、現在の神田明神のお山から南へなだらかな山裾が続き、そのすぐ向こうは海でありました。その山裾一円を武蔵国南豊島郡福田村と呼んで居りました。福田村は神田山をきり崩して平らな土地を作り、土着の人々は米作りを致して居りました。今に残る福田町、豊島町は当時の名残りでごさいます。
和銅年間と申しますと平城京が造られたり、和同開珎として名高い武州足尾銅山の銅を献じて我が国初の貨幣が鋳られたのもこの頃で、凡そ1300年程前のことであります。古事記に依りますと、和銅2年に始めて京都稲荷山に伏見稲荷大明神が勧請致されました。それから2年後和銅4年(711)に伏見より分社して福田村に鎮座したのがそもそも福田稲荷神社の縁起であります。
稲荷神社には御承知の通り、伏見系と豊川系とございます。伏見は神道、豊川は仏道でございますので、福田神社は純然たる伏見系に属する神道でございます。当時、福田村付近の人々は五穀豊穣の守護神として崇敬し、この社を中心にして日夜平和な生活が続いたものと存じます。
現在に至り、日本橋、神田の人々が永く平和を保つことの出来ますのも偏に霊験あらたかなる福田稲荷の御守護の賜物と存じます。
平成18年10月24日 福田稲荷神社

 

昭和通りに行き当たると両側に公園があった。龍閑川の埋め立て記念碑があった。

 

昭和通りを越える歩道橋は首都高1号上野線をくぐる。

 

降りた先も両側に公園があった。

 

公園に竜閑川(神田八丁堀)についての詳しい説明があった。

神田八丁堀跡
明暦3年(1657)1月18日の江戸大火は、俗に本郷の振袖火事と呼ばれています。この大火では、江戸城のうち西丸を除いた天守閣・本丸御殿などを焼き尽くしました。その後、天守閣は再建されていません。史料によって差がありますが、城下でも大名屋敷が160軒、旗本以下の屋敷が770軒余、町屋が1200町にわたって焼失し、死者も10万人を数えたといわれています。
この大火ののち、まず防火のために八丁(約870m)にわたる土手が築かれました。天和3年(1683)頃になると、土手のそばに広道(明地)ができました。その後、元禄4年(1691)頃になると、町人達が自ら費用を負担して明地に掘割を開削しました。これば神田八丁堀です。神田と日本橋の境となっていました。白銀町堀とも呼ばれ、のちに竜閑川と名づけられ千代田区と中央区の区界になっています。
掘割は、東京都千代田合同庁舎(千代田区内神田2-1)の南側あたりで外堀(現在の日本橋川)から分かれて東北東に続いていました。東神田1丁目の所から南南東に向けをかえて新堀(のちの浜町川)となって日本橋浜町で大川(隅田川)に注いでいました。のちには、東神田1丁目の所から北北西に流れる水路も開かれて神田川ともつながっていました。
この堀には、西から竜閑橋、白旗橋、西仲之橋、今川橋、東仲之橋、地蔵橋、火除け橋、九道橋、甚兵衛橋、小出橋が架かっていましたが、終戦後に堀が埋め立てられた時に廃橋となりました。この標識が建っている辺りには、かつて地蔵橋が架かっていました
平成14年3月建替 千代田区教育委員会

 

その先をずんずん進むと龍閑児童公園に突き当たった。橋のモニュメントから来た方向を振り返って。

 

龍閑児童公園で右に直角に曲がり、新堀(浜町川)跡の細道を進んだ。

つづく。