墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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行基平山頂古墳・機神山山頂古墳・織姫神社 栃木県足利市巴町・西宮町(織姫公園内)

前回のつづき。

行基平(ぎょうきだいら)山頂古墳、機神山(はたがみやま)山頂古墳は、足利市役所のすぐ西側の山の上の織姫公園にある。

山頂付近の「もみじ駐車場」に車を停めて、初めに標高の高い北側へ登ると見晴らしのよいところに出た。

 

東方向の眺め。

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西方向の眺め。

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ズームすると隣の尾根の先にある足利公園の木立が見えた(中央)

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南北の尾根上で南方向の眺めはなかった。北方向へは遊歩道が続いていた。

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両崖山へと続く「関東ふれあいの道」だったが、1.3kmの表示を見てここで戻った。

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そこに立っていた両崖山城跡の説明板。平安期から城があった。

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少し戻って車道にかかる歩道橋を渡る。

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渡った先に立入禁止の墳丘があった。

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土嚢が積まれたところも。

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回り込んでいくと行基平山頂古墳の説明板があった。

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行基平山頂古墳は、尾根上に造られた全長38mの前方後円墳。

すぐそばにある機神山山頂古墳に先行する5~6世紀の築造とのこと。

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足利市重要文化財(史跡) 行基平山頂古墳
この古墳は、前方部を南に向ける前方後円墳です。大きさは、全長約38m、後円部の径約20m、高さ約4m、前方部の長さ約18m、幅(推定)約10mで、後円部が前方部よりわずかに大きく高い形をしています。

埋葬施設や副葬品は発掘調査をしていないため不明ですが、墳丘からは埴輪(人物・円筒など)が出土しています。本墳は、墳丘の形から機神山山頂古墳に先行する5~6世紀に造られたものと推定されます。
昭和53年6月21日指定 足利市教育委員会

 

 【再掲】足利市役所郷土資料展示室では円筒埴輪を復元中であった。

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標柱のある側から。前方部をこちら(南)に向けている。

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機神山山頂古墳へのルート上から。

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市役所文化課でいただいた資料「掘り出された足利の歴史(平成26年度 足利市埋蔵文化財発掘調査レポート)」に掲載されていた行基平山頂古墳の実測図。上記の写真は前方部の裾から後円部方向を長軸に沿って見ていることになる。土の見えている部分が埴輪列が出たくびれ部か。

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同資料にあった、くびれ部の辺りの拡大図。埴輪や土師器が墳丘に並んでいたことが示されている。

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そのまま進んでいくと山頂の「伊とう」という蕎麦・コーヒー店の横に出た。

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その隣に比高差4mの墳丘がある。東に向いた後円部の下から。

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南側をぐるりを回っていく。

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上り口があったが残念ながら閉鎖中。

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機神山(はたがみやま)山頂古墳の説明板。

6世紀後半に築かれた全長36m(以上)の前方後円墳。8mの長さの横穴式石室を持つ。

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機神山(はたがみやま)山頂古墳(足利市指定 昭和53年3月6日指定)
機神山山頂古墳は、足利市街地の北西、織姫神社のある機神山の山頂にあります。この機神山から両崖山にかけての標高53~118m、東西約500m、南北約600mの葉にの尾根上及び斜面には26基の古墳があり、機神山古墳群と呼ばれています。


墳丘の規模・形状
この古墳は前方部を西に向けてつくられており、墳丘の全長は36m以上、高さ4m以上、2段築成の前方後円墳です。2段目の斜面にはチャートの割石による葺石が施されています。墳丘1段目には葺石がなく、北側くびれ部から後円部にかけてテラス(平場)をつくるための盛土をしているほかは、全体に山裾の傾斜を削り出し、テラス及び一段目の墳丘をつくっています。
埋葬施設
横穴式石室が後円部南側に開口しています。平面形はゆるい同張りの無袖石室で、現存する全長は8.08m、幅は奥壁直下で1.98m、最大部分で2.73m、入口部で1.53m、高さは奥壁で2.34m、入口部で1.23mあります。奥壁、両側壁、天井石ともにチャートの割石を使用しています。
出土遺物
明治26年に行われた発掘調査の際、副葬品として直刀2、鉄鏃17、獣帯鏡2、六鈴鏡1、馬具(杏葉1、轡1)、須恵器(提瓶)、勾玉、丸玉、小玉等が出土、その他、墳裾から円筒埴輪、形象埴輪(人物・馬・鳥・家・靫・盾)が出土したとの記録がありますが、残念ながら所在不明となっています。
平成20年度に墳丘の規模・形状等を確認するため足利市教育委員会が発掘調査を実施し、くびれ部付近を中心に円筒埴輪、形象埴輪(馬・大刀・靫・盾・さしば等)がたくさん出土しました。

本古墳は、古墳の形式や出土遺物等から、古墳時代後期の6世紀後半に造られた古墳と考えられます。墳頂部の標高が約118mと本古墳群中最も高い所に位置し、市街地全体を見渡せるすばらしい場所に立地しています。明治時代の調査記録でも鏡をはじめとした貴重で内容が豊富な副葬品が出土していることからも、この機神山山頂古墳は本古墳群の中でも有力な人物の墓であったと考えられます。

・平成23年3月11日に発生した巨大地震に伴い、横穴式石室の側壁の一部が転落、また、天井石のずれ等の被害があり。石室損壊の危険があったことから、震災後、石室内部に土のうをつめて、古墳を保護するための対策を行いました。足利市教育委員会

 

説明板にある一文「墳頂部の標高が約118mと本古墳群中最も高い所に位置し、市街地全体を見渡せるすばらしい場所に立地しています」が非常に気になった。

こちらは墳丘裾にある展望台からの眺め。南東の方向。

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ズームすると岩井山城(勧農城)跡がある独立丘陵。渡良瀬川はこの丘の南側を回りこんで流れている。

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その少し右まで眺望があった。

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ズームすると渡良瀬川に架かる三連アーチの中橋(1935年築)

写真を撮っているときはこれが渡良瀬橋だと思っていた。渡良瀬橋はこの右(西)にあるが、この場所からは木の蔭になっていた。

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東は足利の中心街。右の木立は鑁阿寺(ばんなじ)

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機神山のもっとも良いポジションに築かれた古墳の墳頂からは、おそらく眼下の足利市街のみならず、関東平野を一望する屈指の眺めが得られるはずだが叶わなかった。

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郷土資料室でいただいたパンフにあった航空写真。右の後円部、左の前方部がよくわかる。

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回り込んで西の駐車場側から。こちらが前方部の裾。

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郷土資料室でいただいた資料によると、この先にも前方後円墳がある。

下図の146の数字の左。

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駐車場の西側の尾根上、ベンチの先に続く道。

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道は続いているようなので行ってみた。

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行き止まりのこのあたりが墳丘の雰囲気だったが手掛かりはつかめず。

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斜面に大きなキノコがあった。

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戻って織姫神社の方へ向かう。途中にあった「足利県立自然公園」の看板。

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北の名草の巨石群へ続く道が「特別地域」に指定されている。途中の浄因寺まででも9kmあるので道程は長いが。

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山道を少し降りると織姫神社の奥宮があった。

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そのまま下ると機神山の中腹にある織姫神社に出た。

この神社が昭和12年にこの場所に遷座したときに発見され削平された織姫神社境内古墳跡が東の石垣に刻まれていることは後から知った。

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社殿から南側。北から連なる尾根の先端で見晴らしのよい境内だった。

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参道の石段は山の下まで続く。

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織姫神社の説明板。

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足利織姫神社
足利は古くから織物を中心として栄えてきました。奈良時代初期の和銅6年(713)というのが足利織物が文献上に残る最古のものと言えるでしょう。その約1300年の伝統を持つ足利織物の守り神として奉られているのが足利織姫神社で、昔機織を司られた天御鉾命と天八千々姫命を祭神としております。
昔は「機神(はたがみ)さま」と呼ばれ、明治12年8月24日に合祀されていた通4丁目の八雲神社から今の織姫山南麓に遷宮しましたが、翌年の明治13年9月10日の火災で焼失以来、仮宮のまま約50年を経過。この間、織姫神社奉賛会により織姫神社中腹に朱塗りの社殿が造営され、昭和12年5月7日仮殿から遷座して現在に至っています。
緑に映える朱塗りのお宮は、国登録有形文化財にも指定されている足利名勝の一つで、足利県立自然公園の最南端に位置しています。社殿の東側には関東ふれあいの道「歴史のまちを望むみち」が通っており、北に続く織姫山一体は明治100年記念事業として造成された総合公園(織姫公園)になっています。

 

足利の織物の歴史は、なんと奈良時代初期の文献に記載があるそう。室町幕府を開いた足利氏は、足利の出身であったからで地名の方が先にある。

「足利」の由来を調べると下記のサイトに7つの説が載っているが、古代に遡るものが多い。その中で下記の「アシキキ説」が最初に書かれている。

足利の地は、昔から東山道の重要な駅家であったため、足が丈夫でよく走れる使者や、駅夫などが置かれた。このように足のよく利く者が多くいたため、それが地名となったという説。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000047466

 

足利に来て古墳の密度が高いことに驚いたが、そのわけも東山道の駅家ができたほどの交通の要衝であったからだろうと納得が行った。

ここから50kmほど西に位置する榛名山は6世紀前半に大きな噴火を起こしているが、その辺りから移り住んだ人々も大勢いたのでは、と想像もした。

 

つづく。