墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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足利公園古墳群・八雲神社 栃木県足利市緑町

前回のつづき(写真多めです)

八幡山古墳群を巡った後、北へ渡良瀬川を渡って足利公園へ向かった。

麓に八雲神社が鎮座する。

 

社殿を修復中だったが、柱を載せる「柱石」が箱に入って置かれていた。

 

向かって右側の鳥居から後ろの丘に上ることができた。

 

石段を上がって右に大きな大黒様。

 

その左手に散策路が続いていた。秋にはきれいな紅葉が楽しめそう。

 

奥の斜面に墳丘らしき膨らみが見えた。

 

進んでいくと、石室開口部があった。

 

足利公園第1号墳。

明治期に坪井正五郎博士により、”わが国初”の科学的発掘調査が行われている。

足利公園第1号墳
この古墳は、南東向の急な斜面につくられた直径約16m、高さ4.5m以上(谷側から)の円墳です。墳丘は2段築成で、河原石の葺石を持ち、さらに1段目テラスには一定の間隔をあけ埴輪がならんでいました。ただし、山側は1段目の葺石、埴輪列ともに省略され、谷側から見上げた時、大きく立派に見えるようにつくられています。
内部主体は、南東を向いた無袖式の横穴式石室で、長さ3.5m以上、高さ約1.75mです。奥壁はチャート(山石)の2枚重ね、側壁は細長い河原石を小口積みにしたものです。
平成4年度に保存整備にともなう発掘調査が行われ、耳環、家形埴輪、朝顔形埴輪、円筒埴輪、須恵器などが出土しました。
本墳は、明治19年(1886)、足利公園造成にともない、人類学者の坪井正五郎博士によりわが国初の古墳の科学的調査が行われた、足利公園第1号墳であると考えられます。当時の記録によれば、この古墳からは、人骨大人一体分、勾玉2個、丸玉4個、小玉4個、金銀環8個、直刀7振、刀子2本、鉄鏃等が出土しています。坪井博士は、文久3年(1863)江戸両国に生まれ、東京大学大学院在学中にこの古墳の調査を行いました。その後も東京芝丸山古墳などの調査を精力的に行いわが国近代考古学の発展に大きな寄与をした人です。
この古墳は日本の近代考古研究の記念碑として貴重です。
平成6年1月 足利市教育委員会

 

上記の説明にあるように2段に築成された径16mの円墳。斜面にあるので下からみると迫力がある(高さ4.5m)

テラス状になっている縁に、築成時には埴輪が並んでいたとのこと。

 

南東を向いた無袖式の横穴式石室。

 

 扉左のボタンを押すと中に灯りがついた。

 

奥行き3.5m以上、高さ約1.75mの見事な石室。

 

大きなチャート石が2個重ねられた奥壁。

 

細長い河原石を小口積みで積んだ側壁。

 

巨大な天井石。

 

南側から見た開口部。

 

墳丘上部。奥の下に開口部がある。

 

墳丘から北側下をズーム。住宅地が見えた。 

 

墳丘から南東側の眺め。

 

墳丘を北側から。斜面に築かれていることがよくわかる。

 

1号墳の後ろの斜面を登り、足利公園の最も標高の高いところへ。 

 

そこが、足利古墳公園第2号墳(円墳)

 

墳丘からの眺めは良いが遠望は樹木にかかり気味。

すぐ北側、丘陵上に公園駐車場があった。

 

墳丘を下から。「しばすべり」をしないで下さいとの看板があった。

 

上記の看板の右(東)側に5号墳がある。

 

現地説明板はない。 扉の後ろに補強用の石柱が入れられている。

 

内部をフラッシュで。側壁は河原石とチャートとが混在していた。

 

5号墳の近くに「史跡」の標柱があった。

 

「考古学の源」と記された看板も。 

 

その近くに3号墳が開口していた。

 

詳しい説明板もあった。

足利公園第3号墳
本古墳は、平成5年度、保存整備に伴う発掘調査が行われ、丘陵を巧みに利用してつくられた全長約34m、高さ6m以上(谷側から)の前方後円墳であることがわかりました。墳丘は2段築成で、河原石の葺石を持ち、1段目テラスには小さな石がすき間なく敷かれ、さらに、円筒埴輪が接して一列にならんでいました(左写真参照)。造られた当時は全面に石が張られ、異様な景観であったと推定されます。そのほか、人物、家、盾、とも、ゆき、大刀、きぬがさの形をした埴輪が出土し、墳頂部を中心に立てられていたと考えられます(左写真)。
内部主体は、南東を向いた両袖式の横穴式石室です。奥壁は、チャート(山石)の2枚重ね、側壁もチャートの割石を積んだものです。
全長7.9m、玄室長3.3m、玄室幅約1.8m、高さ約2.1mです。
本墳は、明治19年(1886)、足利織物講習所役員・峰岸政逸氏によって発掘調査された足利公園第3号墳であると考えられます。この発掘がきっかけとなって坪井正五郎博士による発掘調査が行われました。
当時の記録によれば、この古墳からは、金環、小刀、鉄鏃、轡、馬具、杏葉(左図)、鎧小札等、さらに須恵器が出土しており、甲冑を身につけ馬具で飾られた馬に乗った支配者の姿が思い浮かびます。
峰岸政逸氏は、弘化2年(1846)、今福村に生まれ、明治時代足利の機業界で活躍する一方、文化人としても知られていました。
本古墳は足利公園古墳群内で最も大きな前方後円墳として貴重です。
平成9年3月 足利市教育委員会

 

 石室内部。側壁にもチャートの割石が使われている。

 

石室は前方後円墳の後円部側面に開口している。

 

後円部を軸線の下側から。谷側からは6mの高さになる。

2段築成で、テラスを左に行くと開口部になる。

 

開口部の逆側。テラスの上から右後ろに前方部が連なる。

 

後円部の斜面を振り返って。 

 

後円部墳頂から、その先を見下ろしたところ。

 

後円部から前方部。

 

前方部墳頂(の少し左寄り)から見た後円部。

少し秋の気配。

 

前方部上から見た前方部の隅。 

 

前方部の麓から後円部に向かっての軸線。山側はあまり比高差はない。

 

前方部の左裾から。左奥が後円部。 

 

明治期の戦績記念碑(?)と3号墳(右)

 

記念碑のすぐ南側にも3つの円墳があった。

おそらく12号墳。

 

多分10号墳。

 

きっと11号墳。

 

その裾あたりに気になる石があった。

 

公園の南端に全体像がわかる説明板があった。第1号墳から第12号墳まで記されているが4号墳と6号墳がなくて10基の古墳群となっている。

個々の古墳の説明板は1号墳と3号墳しかなかった。

 

足利公園古墳群は「関東古墳探訪ベストガイド」にも掲載されていて、以前から訪ねたいと思っていたスポット。歩きやすく、観察しやすく、眺望もあって気持ちのよい古墳公園だったが、石室付近は薮蚊が多く、カメラを構える一瞬で手に止まるので、古墳見学は紅葉の秋から桜の春までがおすすめ。

関東古墳探訪ベストガイド

関東古墳探訪ベストガイド

 

1号墳と3号墳は事前に足利市役所文化課に申し込むと石室内に入って見学できるようだ。

 

こちらの埼玉古墳軍さんのサイトに、石室内での写真などとともに1~3号墳の築造年代も記されていた。埴輪列などの様子から、3号墳が6世紀中頃、2号墳が6世紀後半、1号墳が7世紀前半になるとのこと。

http://www.asahi-net.or.jp/~fx3j-aid/kofun/tochigi/02_ashi/koen1.html

 

看板から再び八雲神社の方へ向かう道。 

 

修復中の八雲神社。後ろは足利市街中心部になる。

つづく。