前回のつづき。
兎川寺の山門を背に南へ200mほど歩くと、針塚古墳のサインがあった。
きれいな生け垣の小道に入る。
すぐに開けて田んぼに出た。
墳丘かと間違えた大きな石碑は「圃場整備事業竣工記念碑」
土地区画整備事業の苦労の大きさを物語っているよう。
針塚(はりづか)古墳はその先にあった。駐車場完備。
石が平らな面が表に出るように葺かれているのではなく、尖った面が外に向けられるように積まれている。針塚とはうまく名づけた。
手摺りも整備された階段で墳丘へ。
墳頂には竪穴式石室が再現されていた。
長辺の向く先は西南西の方角。雲がなければ北アルプスが見えるはず。
パノラマで。周囲が農地で扇状地にあるので見晴らしがいい。
背面側。
扇状地を遡った山は「出峰」か?
東側をパノラマで。
墳丘越しに。
周囲にはベンチや花壇も整備されていた。
ベンチから見た針塚古墳。
説明板があった。直径20mの円墳で、5世紀後半~終盤に築かれた「積石塚古墳」
積まれた石は築造時は1万個になるそう。
長野県史跡 針塚古墳
針塚古墳は、周囲に溝を巡らせた円形の古墳(円墳)で、溝を掘った時の土を盛り上げた上に、石積で墳丘を構築するという珍しい構造を持つ古墳(積石塚古墳)であることが、発掘調査の結果でわかりました。積み石は南側を流れる薄川(すすきがわ)から採取された川原石で、築造時には1万個以上の石が使われていたと推定されます。墳頂部には底面に鉄平石を敷き詰めた竪穴式石室があり、石室内部からは銅鏡や鉄鏃、ガラス小玉などが出土しました。また溝の中には葬送の際に使われた多くの土器が残されていました。築造年代は出土した遺物から、5世紀の後半から終わりころと推定されます。
古墳の周囲を巡る溝(周溝)の底から2基の埋葬施設が発見されました。ひとつは南側の木棺墓、他は東側にあって墳頂部と同じ竪穴式石室です。2基とも墳頂部石室の被葬者につながりのある人物の墓と推定されます。
かつて薄川右岸の段丘上には針塚古墳を含む数基の積石塚とみられる古墳がありましたが、開墾などでほとんどが破壊されてしまいました。
針塚古墳は松本市内に残る数少ない積石塚古墳であり、地域の歴史を知る上で貴重な古墳として地元の皆様の協力を得て現地で保存整備されています。墳頂部には、竪穴式石室の復元模型が展示されています。
なお、出土品は、松本市立考古博物館で保管していますので、くわしくはお問合せください。
指定年月日:平成9年2月20日
規模:墳丘径20m/周溝幅1.6m(西側)~3.1m(東側)/墳丘高さ約2m
埋葬施設:墳頂部 竪穴式石室(長さ2.25m・幅1.30,m)/南側周溝内 木棺墓(長さ1.76m・幅0.88m)/東側周溝内 竪穴式石室(長さ1.56m・幅0.35m)
平成26年3月 長野県教育委員会 松本市教育委員会
北西側の隅から。
「松本のたから」にも詳しい解説がある。
http://takara.city.matsumoto.nagano.jp/prefecture/061.html
積石塚古墳は高句麗に多い墓制であることから渡来人との関係を指摘する声もあるそうだ。
周辺の文化財を示した案内もあった。
針塚古墳周辺の文化財
針塚古墳のある場所は薄川中流域の河岸段丘上に位置し、ここからは松本の市街地を見渡すことができます。この山辺谷は「倭名類聚抄」(平安時代の百科辞典)にでてくる山家の郷にあたるところで、現在も多くの文化財が残っております。
上記の絵地図は周辺の古墳や遺跡を中心に表示したものです。現在では見ることができないものがほとんどですが、発掘調査された遺跡の出土品は考古博物館や山辺学校歴史民俗資料館に保管展示してあります。
平成26年3月 松本市教育委員会
紫は「なくなってしまった古墳」、黄土色は「現在も残っている古墳」
近くの松本民芸館のそばにも一つ記しがあったので、合せて訪ねてみることにした。