墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

千葉市ゆかりの家・いなげ(愛新覚羅溥傑仮寓) 千葉県千葉市稲毛区稲毛

前回のつづき。

稲毛浅間神社がある傾斜面の東端に、愛新覚羅溥傑とその妻の嵯峨浩が新婚時代の半年を過ごした家、「千葉市ゆかりの家・いなげ」があった。

 

千葉街道側からは参道の左脇、京成稲毛からは稲毛浅間神社の臨時駐車場の先を左に入る。

 

トタンの壁の前にサインがあった。

 

その先、斜面を削って門が作られていた。

 

植木で隠れているが、建物は道路のすぐ脇に立つ。

 

玄関の引き戸を開けると、正面側と右手側にL字型に平屋の部屋が続いていた。

 

傾斜を活かした庭は広く感じられ、緑豊かに手入れされていた。

 

愛新覚羅溥傑 - Wikipedia(あいしんかくら ふけつ:1907~1994)は、清朝ラストエンペラー・溥儀の弟。

嵯峨公爵の長女・嵯峨浩 - Wikipedia(ひろ:1914~1987)と結婚し、当時在籍していた陸軍歩兵学校に近いこの家で昭和12年(1937)に半年ほど暮らした。

その後夫妻は東京に転居し、長女の慧生(えいせい)を日本に残して満州に向かったが、敗戦で満州国は解体され溥傑はソビエトの捕虜に、浩は八路軍に拘禁された。

戦後、溥傑は中国の収容所に収監、浩は釈放されて上海からの引揚船で昭和22年に帰国、昭和36年に浩は中国への入国を許され溥傑と再会、その後夫妻は共に日中親善に尽力され、その生涯を終えたとのこと。

千葉市:文人に愛された別荘地「稲毛」より。

 

家系図などが掲げられた部屋。

 

南端の座敷は風が通り抜け、光溢れる気持ちのよい部屋だった。夫妻も新婚時代は幸せな時間を過ごしたように感じられた。

 

千葉市の公式サイト・千葉市ゆかりの家・いなげ(旧武見家住宅)(市地域文化財)に、建物についての解説もあった。

明治中期以降、保養地として多くの文人墨客が訪れた稲毛は、海岸線の松林を中心に、別荘・別邸が建てられました。その多くは和風建築でしたが、この建物はその中で現存する非常に貴重な遺構です。平成9年に武見氏より市が取得し、同年4月から「千葉市ゆかりの家・いなげ」として公開しています。

屋敷は、平屋の主屋と庭の離れから構成されています。主屋は棟がL字型となっており、南・東川の屋根には入母屋の破風が見られます。室内は、漆塗りの枠の腰付障子、菱格子で飾られた欄間、高く張られた格天井などの意匠が凝らされています。居間には洋間が付いていますが、屋根の形状や取り合い柱の納まりから、のちに増築されたものであると考えられます。

離れは、外壁が主屋の洋間のものと同じ板壁であることから、洋間を増築した時期に造られたと推定されます。室内は、6畳と床の間で構成され、床の間にはいわゆる木瓜窓が施されています。

全体として改造が少なく、大正時代初期の意匠をよく伝えており、また、愛新覚羅溥傑が成婚間もない昭和12年に半年ほど居住していたという歴史的事実もあることから、稲毛の歴史を知る上で、非常に重要な建造物です。

 

南端の縁側。突き当たりに手洗いがある。

 

庭へ降りることもできた。外から見た南の縁側。藤棚の深い木蔭が効果を発揮している。

 

その右手にL字形に続く建物。

 

東の端の洋間を外から。

 

内側には夫妻の写真が飾られている。

 

幸せそうな情景。

 

洋間のすぐ裏手に一部屋の離れもあった。

 

その近くには防空壕か(?)

 

上記の向かい、洋間の裏手に植えられている「白雲木ハクウンボク - Wikipedia

 

浩が旧満州国の首都新京(現在の長春市)に赴く際に貞明皇太后から「満州の地に植え日本と中国をつなぎ新しい命の花を咲かせるように」と下賜された種子が、紆余曲折を経て植えられているそうだ。