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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

旧東富坂~出世稲荷~新坂(外記坂) 東京都文京区本郷

前回のつづき。

春日町交差点を南に渡り、 丸ノ内線の高架をくぐると線路に沿って上る坂道がある。

途中に面白い抜け道があった。

 

高さはそれほど低くはないが、傾斜があって向こう側が見えない。通る人は頭をかがめ気味だった。

 

丸ノ内線と並行する坂の名は、旧東富坂(きゅうひがしとみさか) 車道に向けては大きな文字で。

 

その裏の歩道側は、いつもの説明板だった。

旧東富坂
むかし、文京区役所があるあたりの低地を二ヶ谷(にがや)といい、この谷をはさんで東西に二つの急な坂道があった。
東の坂は木が生い繁り、鳶がたくさん集まってくるので「鳶坂」といい、いつの頃からか「富坂」と呼ぶようになった。(「御府内備考」による) 富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。
また、二ヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから「飛び坂」ともいわれた。明治41年、本郷3丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として現在の東富坂(真砂坂)が開かれた。それまでは、区内通行の大切な道路の一つであった。
昭和63年3月 東京都文京区教育委員会

 

説明板の後ろから。 

 

すぐ横を丸ノ内線が通り過ぎる。

 

高架からトンネルに消えていく。

 

トンネルの上から後楽園駅方向を金網越しに。

 

坂の途中の気になる枝道。

 

通り抜けて振り返ったところ。

 

坂下の近くに出世稲荷があった。大奥で大出世した春日局がこのあたりに屋敷を拝領したときに勧請した稲荷社。

 

入口脇に旧町名案内。

春日町(1,2,3丁目) 昭和40年までの町名
むかしは野原であったのを、寛永7年(1630)3代将軍家光の乳母春日局が、幕府に願い拝領し、局のお付きの御下男30人の住まいとした。「御符内備考」
春日局とのゆかりで、古くは春日殿町と呼ばれ、後に春日町となった。
この地を拝領した寛永7年は、春日局52歳、江戸城大奥の総取締りとして威勢並ぶ者がなかった。
拝領地になったとき、その鎮守のために稲荷社が祭られた。春日局の出世にあやかり「出世稲荷」と呼ばれ、現在も町の人にあがめられている。

 

上記より、少し詳しい説明板もあった。

出世稲荷 本郷1-33-17
「この辺昔、春日局宅地なりし時、鎮守のため勧請なり。春日局・・・ 出世ありしゆえ当社の神徳を崇め、出世稲荷と崇め奉るなり。」「旧事茗話(くじめいわ)」
春日局は本名「ふく」父は明智光秀の重臣斉藤内蔵助利三である。戦いに敗れ、逆賊の家族として苦しい生活をした。後、徳川三代将軍家光の乳母となり、江戸城大奥にて大きな力をもつに至った。
このあたりの片側を将軍から拝領し町屋をつくった「御府内備考」によれば神社の土地は拝領地28坪、外に27坪、小栗楢之丞より借地とある。享保2年焼失したので京都稲荷山の千年杉で御神体を作り祭った。春日町起源のゆかりのある場所である。
昭和60年3月 文京区教育委員会

 

本郷台地の斜面の下が境内になっている。

 

傘を置いて参拝。 

 

拝殿の左に斜面を利用した滑り台があった。

 

一応滑り台の上からも。

 

出世稲荷の斜面上の道を南に向かうと、階段坂に突き当たった。

 

途中に説明板も立つ。

新坂(外記:げき 坂)
区内には新坂と呼ばれる坂が六つある。「東京案内」に、「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下るを新坂という」とある。「江戸切絵図」(嘉永6年 尾張屋清七板)によると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり。ゲキサカとある。新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。
この坂の一帯は、もと御弓町(おゆみちょう)、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓組の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木、斉藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ。
昭和63年3月 東京都文京区教育委員会

 

坂下から。