既に5月に入ってしまったが、3月下旬に春日界隈を歩いたときのことを。
この日は、まず枝垂桜を一目見に小石川後楽園へ。入園してすぐに出迎えているような1本。
こちらは別の2本。細い園路が自撮りの方々で渋滞となっていた。
この日は時折小雨の花曇り。
小石川後楽園の北西の牛天神下交差点を曲っていくと建物の間に北野神社への参道があった。
こんなところにこんな高低差があったとは。
石段の途中で横をみるとかなりの崖。
登ってから振り返ったところ。
階段脇の社務所に、葛飾北斎の富嶽三十六景「礫川(こいしかわ)雪の旦(あした)」が示されていた。
この場所から富士を眺望した絵と考証されているとのこと。今は富士は見えないが、現宮司の幼い記憶には残っているという。
まずは拝殿で参拝。
境内に説明板があった。
北野神社・中島歌子歌碑 文京区春日1-5-2
北野神社は、江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれた。御祭神は、菅原道真公である。
縁起によると、寿永元年(1182)源頼朝が東国経営のとき台地下の老松に船をつなぎ、風波のしずまるのを待った。夢中に菅神(道真公)が現れて、二つの吉事があると伝えた。お告げの通り男子(頼家)が生まれ、平家を西海に追うことができた。頼朝は大いに喜び、元暦元年(1184)ここに社殿を造営したという。また、夢さめて菅神の立っていた跡に、牛の形をした石(牛石という)があった。(現在は社殿の前にある)
境内の南側に、中島歌子(1844~1903)の歌碑がある。歌子はすぐ近くの安藤坂の歌塾「萩の舎」の塾主である。
門下には、梨本宮妃、鍋島侯夫人や前田侯夫人など、上流中流層の婦人1000余人がいた。樋口一葉、三宅歌圃らはその門弟である。
歌碑は歌子の死後、明治42年(1909)門下生によって建てられた。
雪中竹
ゆきのうちに根ざしかためて若竹の
生ひ出むとしの光とぞ 思ふ
昭和57年3月 文京区教育委員会
その句が刻まれた大きな石碑。
社殿の前に牛石(撫で石)があったので、さすらせていただいた。
台地上側から神社を出ると、隣に坂があった。
傾き・曲り・幅・両側の構築物のどれもが良い具合。
少し下って振り返ったところ。
説明板があった。
牛坂
春日一丁目5 北野神社北側
北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見坂・蠣殻坂・鮫干坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は、今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。牛坂とは、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来といわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)
「江戸志」には、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅神(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現れ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石がこれである。と記されている。
平成16年3月 文京区教育委員会
説明板の対面あたりは崩れかけた煉瓦積みで補強された崖が露出していた。
坂下から。
ここで道は大きく曲る。右の先に神社の参道石段がある。説明板にある、かつての入り江はそのあたりか。
坂を上り返して北野神社の北側へ向かうと、同立派な煉瓦塀に囲まれた常泉院がある。
角を曲っても続く煉瓦塀。
なかなか古そうな風合い。
このあたりは横一列に長手と小口を交互に見せるフランス積み。
門の両脇は長手だけの列と小口だけの列が一段おきのイギリス積み。
門前にお寺の縁起の説明板があった。
金剛山常泉院は江戸時代初期に卓圍法師が開基した真言宗豊山派のお寺。弘法大師御符内八十八ヶ所霊場の第86番であったとのこと。下記の読誦経典まで記されていた。
「ヲン アボキャ ベイロシャナウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」
かつての立派な山門の写真も。
常泉院の北側には浄土宗の西岸寺。
近くに文京区の旧町名案内があった。
旧仲町(昭和39年までの町名)
むかしからの市街地で、もと金杉水道町と伝通院前表町との間にあったので、仲町とした。
明治2年、水道町の内、俗に肴店、七軒町を併せ、同5年また近くの地を併せた。
古老の口伝えとして、次の話が伝えられている。(昭和12年、日日新聞所蔵)
承応年間(1652~55)、三代将軍家光が鷹狩りのみぎりここに馬をとめ、「ここはどこぞ」と尋ねた。供の者は、かしこまって、「小石川村の中ほどにございます」と申し上げると、家光は「ああそうか、仲町じゃな」と。
これから、小石川仲町となったとある。 文京区
つづく。