前回のつづき。
車で城巡りをして、夜は桜坂の店を堪能した翌日も、那覇市観光協会が主催する「那覇まちまーい」の2つのコースに参加した。
午前の部は「開運 首里十二支巡り」
公式サイト・開運 首里十二支巡り(11) | 那覇まちま〜いのコース案内は下記のとおり。
自分の守り本尊(守護仏)を知り、今在ることを感謝しながら巡礼します。寺にまつわる歴史、風習、精神文化を分かりやすく紹介しながら古都首里の中心部を一周する、健康志向の開運コースです。
西来院~円覚寺跡~天界寺跡~安国寺~慈限院~普天間権現発祥之地~盛光寺~本家新垣菓子店~天王寺跡~首里公民館
残念ながら天気は雨。
寺は、ほとんどが戦後に再建された2階建ての鉄筋コンクリート造りで建物見学としての魅力はなかった。
しかし、どこも参拝客が多く、「首里十二支巡り」という特別な信仰の伝統があることがとても興味深かった。
どのお寺にも、本殿の畳や椅子の前に供え物を置く台が数列設けられていて、お酒を入れるガラスの器、米を入れる木箱などのセットが置かれている。参拝客はさらに果物やお餅を入れた風呂敷包みの”拝みセット”を持ってきて、台の上に置いて拝む。
拝むことを職業(?)とするユタと呼ばれる女性を伴っておられる方々も実際に見かけた。
首里十二支巡りは最初はツアーの名かと思ったら実際に現地で生きている信仰であり、数ヶ所の寺を”拝みセット”を持って回る(地元の方は車で)ことが日常的に行われていた。
後で調べてみると、琉球時代の中国文化の影響で今でも生活に干支が根付いており、首里城周辺の4ヶ寺が干支の守り本堂となって「寺回り(てらまーい)」が行われているとのこと。
十二支それぞれに”守り本尊”が次のように対応している。
子:千手観音、丑:虚空蔵菩薩、寅:虚空蔵菩薩:卯:文殊菩薩、辰:普賢菩薩、巳:普賢菩薩、午:勢至菩薩、未:大日如来、申:大日如来、酉:不動明王、戌:阿弥陀如来、亥:阿弥陀如来
集合場所は首里の西来院。
こちらのお寺の干支は卯、戌、亥とのこと(つまり文殊菩薩と阿弥陀菩薩がご本尊)
堂内は撮影禁止。雨が激しかったので、屋根下の駐車場から本堂を横から見上げたところ。
次々と駐車場に車が入ってきていた。お彼岸に当たっていたのでそのせいかと思ったが、ガイドの方に聞くと日常的に人は多いとのことだった。
どのお寺もお守りの種類が豊富で、十二支は全てあり、普通のお寺や神社で目にする数の何倍かの数が置かれていた。
次の安国寺は少し離れていたが、首里城の城壁に沿って歩いた。
階段を登って屋根のある東屋で雨宿り休息。
南東側をズーム。晴れた日にはこの先に青い海が見え、さらには久高島も望めるそうだ。
北側の赤い屋根は沖縄県立芸術大学。
一息ついてから首里城の城壁の外側を回りこんで降りていった。
城壁の隅・上端のぴょこんは、魔除けの形なのだそう。
降りてきた階段を見上げて。
しばらく進むと、かつての石畳跡が見られるポイントがあった。
右手には円覚寺跡。
円覚寺 (那覇市) - Wikipediaによれば、第二尚氏の菩提寺として1494年に第二尚氏王統の尚真王がある鎌倉の円覚寺を模して建立され、尚氏の支援を受けて繁栄し、昭和8年(1933)には仏殿、三門、方丈などの伽藍は国宝に指定されたが、沖縄戦で放生橋を残して全焼した。昭和43年(1968)に総門が復元され、今後三門も復元される予定とのこと。
横から見た総門と放生(ほうじょう)橋・放生池。
在りし日の仏殿の写真が、過去の市歴博の企画展ポスターにあった。
かつての石垣が残っている箇所。
上部はほとんどが復元されたもの。
その先には、首里城の久慶門(きゅうけいもん)があった。ここからの入場は出来ない。
公式サイト・正殿周辺 | 施設紹介 | 首里城公園によれば、正門の歓会門(かんかいもん)に対する通用門であったそう。
門の左手には寒水川樋川(すんがーひーじゃー)と呼ばれる湧水がある。実際に水が出ていた。
門の右手にも水が滴るヒージャーが。
久慶門から北側の道。かつてこの道を通って首里城へ向かった人々は、この湧き水で身を清めてから参内したそうだ。
もう一本西側に並行して下りていく道。ツアーでは降りずに進んだが、石段下には旧日本軍の壕(第32軍司令部壕)入口があるそうだ。
非公開の場所だがこちらに探訪記事があった。
その先で観光ルートに合流した。振り返って右に上ると歓会門。その先の瑞泉門、漏刻門、広福門までは無料のエリア。
チラリと見えた正殿の屋根をズーム。
上記の分岐路の脇の園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所で、人が通る門ではない。代表的な琉球の石造建造物で1519年に竹富島出身の西塘(にしとう)という役人が築造したものと伝えられる重要文化財で、世界遺産にも登録されている。
さらに進むと守礼門。
大勢の人が記念撮影をしていた。
その先の首里城レストセンターでまた一休み。建物内に昔の首里城のジオラマがあった。城のある台地を東側上空から見た形になる。
再び歩き出して道を渡るとすぐに旧天界寺の跡。井戸だけが残っていた。
その先は寒川通りを西へ向かう。玉陵 | 那覇市 Naha Cityを通り越した先に、2ヶ所目のお寺、安国寺があった。
山門の左右に仁王様。石積みの部屋の中で目を光らせていた。
門を境内側から見たところ。
赤い瓦の不動殿。不動明王が本尊で、干支は酉になる。
拝殿はこの右側の新しい建物で、こちらも参拝者で賑っていた。
安国寺を出て、首里の尾根道である寒川通りをさらに下る。
通りの北側では首里高校の敷地で大規模な工事が行われていた。
首里高校敷地は旧御殿跡だった。壁の前にあった説明板。
旧中城御殿跡(キュウナカグスクウトゥンアト)
琉球国王世子(せいし)の旧殿宅跡。尚豊王代(1621~40年)に創建され、二百数十年、世子殿の役割を担った。1875年に世子殿が龍潭の北側(現県立博物館敷地)に移転すると、跡地は「下の薬園」となった。1879年の廃藩置県後、1891年に沖縄尋常中学校(後の県立第一中学校)が置かれ、沖縄戦後、首里高校の校地となった。
さらに進んで首里流染の店先に中門跡の石碑があった。
そこにあった説明書。かつてはここに守礼門と同型同大の門があったが、明治末期に払い下げられ撤去されていた。
中山門跡(チュウザンモンアト)
中山門は王都首里の第一の坊門で、綾門大道の西端に建っていた。別名「下の綾門」、「下の鳥居」
1428年の創建とされ、当初は建国門と呼ばれていた。中国の牌楼式の門で、1681年に板葺から瓦葺に改められた。中山門の名は、尚巴志王の冊封使柴山(さいざん:1425年来琉)が献じた「中山」の文字を、後に扁額に仕立てて掲げたことによる。1959年に復元された守礼門と同型同大。
1879年の廃藩置県後、老朽化が進み、1908年5月払い下げられ、撤去された。
首里城へ向かうメインストリート・寒川通り(旧綾門大道)上なので、復元は困難となっている。
通りは尾根道で、次々に現れる脇道がいい感じの坂道になっていた。左奥のマンションは(株)赤マルソウの工場跡に建設中。東京であれば御殿山辺りのイメージの場所か。
途中に自転車ガードがある坂。一人歩きだったら降りていた。
ここもかなり急。
通りを西に下った台地の端に首里観音堂・慈眼院があった。
ヒンプンの横の石段を上がると本堂。
境内には石で造られた池があり、雨で濡れていたので実際に池のようだった。
本堂入口から振り返って。S字カーブの参道。
こちらの観音堂には干支で子の千手観音、丑・寅の虚空蔵菩薩、辰・巳の普賢菩薩、牛の勢至菩薩が本尊として安置されていた。
観音堂から最後の盛光寺へは台地の北の縁を北東に向かって歩いた。
駐車場の脇で紫の雲のように咲いていた花。名前の説明があったが忘れてしまった・・・
山川の交差点角にある「あんどん」というお店は夜景がとても綺麗なのだそう。
店の脇には急階段(見ただけ)
雨に煙る街。
儀保大通りに沿って進むと、道沿いに小さな祠があった。普天間権現発祥之地と伝わる場所で、昔、油売の男に美しい姿を見られた娘が恥ずかしさのあまり普天間の洞穴に逃げたが、非常に足が速かったので、ほとんど人に見られることがなかったという言い伝えがあるそうだ。
儀保駅近くの首里餅菓子店で、おいしい和菓子を購入。黒砂糖を練りこんだやわらかいお餅がおいしかった。
最後に訪ねた盛光寺。ここも次々を参拝者が来ていた。本尊は大日如来で干支は未と申になる。
ここでは1階で葬儀が行われていたが、2階の拝殿では多くの方々が拝みを行っていた。
普通の仏教寺院であるのに、どのお寺にも何組もの方々が熱心に祈られていて、こちらでは祈ることが日常の一部になっていることを実感した。
自分も御賽銭だけではあったが十二支巡りを完了したので、今年も大過なく過ごせそうに思えた。
コース案内を読んだだけでは全くわからなかったが、非常に興味深いツアーだった。
調べていたらこちらの方のサイトに十二支 寺回り(てらまーい)についてのわかりやすい説明があった。十二ヶ所巡り