墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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国史跡・中城城跡(世界遺産:琉球王国のグスク及び関連遺産群) 沖縄県中頭郡北中城村大城

前回のつづき。

この日、車で最後に訪ねた場所が中城城(なかぐすくじょう)跡。 

公式サイト・中城城跡のご紹介/沖縄の世界遺産 中城城跡で詳しい地図が見られる。

標高150m~170mの石灰岩丘陵上の縁にあり、自然地形と琉球石灰岩の城壁で守られた城内には6つの郭がある。 

 

中城城は1440年頃、座喜味城主であった按司の護佐丸(ごさまる)が王府の命令で移って来て、1458年に自刃するまでの間に北の郭・三の郭を増築したと伝えられる。護佐丸が移る前は”先中城”按司が14世紀後半から数世代に渡って築いていた。

 

公式サイトには「グスク」についてのわかりやすい説明もあった。

グスクとは、主に12~16世紀に農村集落を基盤として群雄割拠した「按司(あじ)」と呼ばれる領主的豪族層が、自らの居住と防衛の拠点として築いた城のことです。

琉球王国にはおよそ300余りのグスクがあったといわれていますが、中城城跡は去る大戦の戦禍による被害は小さく、県内のグスクの中でも最も原型を留めているため、歴史的、戦略的に極めて高い価値を有していました。

 

 駐車場は無料だが17時半で閉まる。

 

城跡も観覧時間が8時半から17時(夏は18時)までと決まっていて、入場料(一般400円)を払って中に入る。

沖縄の世界遺産 中城城跡 公式ホームページ

 

音声ガイドアプリがあったことを、エントリを書いている今知った。

世界遺産音声ガイドアプリ/沖縄の世界遺産 中城城跡

 

良く整備された舗装路を進むと、途中で分岐道があった。降りてくる方がいたのでそちらから回ったが、順路とは逆だったようだ。

 

 なだらかに上っていくと城壁が現われる。

 

苔むした石積み。

 

三の郭の城壁と裏門が見えてきた。 

 

裏門からいざ城内へ。

 

アーチの部分。

 

その先、北の郭の石畳道。

 

この中城城には1853年に日本本土へ向かう途中に琉球に立ち寄ったペリー提督一行が訪れて絵図や測量図面なども残しており、ペリーが監修した「日本遠征記」には築城技術の高さに驚いた様子も記されているそうだ。

いただいたパンフレットには、その遠征時の絵も載っていた。

 

 北の郭に三の郭への石段があった。

 

石垣で囲まれた三の郭。城壁には上がれないので展望はない。

 

三の郭から見る二の郭の城壁の凹んだカーブが優美。

 

 高さもある。

 

足元の石畳でスミレが咲いていた。

 

三の郭から一旦北の郭へ戻り、二の郭へ向かう。

 

そこに大井戸への道があった。

 

底まで降りて振り返ったところ。

 

昼なお暗かった。

 

井戸は今でも潤っている。

 

説明板も苔むしていた。 

 

北の郭から歩きやすい階段がを上ると二の郭に出る。

 

二の郭の城壁は少し低くなっている部分を歩くことが出来た。

 

二の郭の城壁から見た三の郭。その先の右上の広場では、なんとロックコンサートのリハーサル中で、激しい重低音が鳴り響いていた。

 

 優美な曲線を上から眺める。

 

右が三の郭、左が北の郭で左端は大井戸になる。

 

二の郭の城壁から見た一の郭の城壁。

 

城壁の南東側の断崖。

 

手前のアーチの先が一の郭。

 

二の郭から見る一の郭の城壁。2から1へは直接上ることができる。

 

 こちらのアーチは非常に良く残っている。

 

くぐった先が、広い一の郭。

 

 こちらも城壁に上がれるようになっていた。

 

一の郭から見る二の郭。北方向でバックは読谷方面。

 

城壁の隅から東方向。こちらは太平洋。

 

南側。与那原や知念半島を見渡す。

 

こちらは西側をズームで。奥に東シナ海の水平線がうっすら見える。

 

修復中の城壁の石が番号を振られて並べられていた。 

 

熊本城ではもっと大掛かりだろうが、気の遠くなるような復元作業。

 

一の郭から南の郭へ

 

さまざまな積み方が見られる。

 

南の郭には御嶽や拝所が複数あった。

 

こちらは、御富蔵火神(うとうくらひぬかん:通称・首里遥拝所)

 

こちらの「窓」は戦闘用か。

 

降りていくと正門があった。本来のコースはこちらから。

 

正門の右隣に史跡の石碑があった。

 

南の郭の崖の下。

崖下右の四角い穴がカンジャーガマ跡(鍛冶屋跡)だったということを後から知った。

 

芝生広場の先に現代の廃墟があった。建設途中で40年以上放置されたままの中城高原ホテル。

 

中城高原ホテル - Wikipediaによれば、昭和50年の沖縄海洋博に合わせて開業しようとしたが工事の半ばで建設会社が倒産。もとは中城城本丸跡に建てる計画もあったほど環境を無視したものだったらしい。

 

このあたりで沖の方をズームすると、うっすらと久高島が見えた。

 

一の郭の城壁を見ながら帰途に。

 

振り返って見た、城壁と廃墟。

 

これだけの城を築いた護佐丸はどんな人物であったか気になるところだが、前出の公式サイト・ 沖縄の世界遺産/沖縄の世界遺産 中城城跡に興味深いストーリーが記されていた。

護佐丸は山田城で生まれ、山田按司を継ぎ、第一尚氏王統時代の英雄として知られる尚巴志とともに、三山統一を成し遂げました。「按司」とは領主・支配者のことです。

その功績が認められ、読谷山の地を与えられた彼は座喜味に城を築いて移り、読谷山按司として尚巴志王の琉球統一事業に尽力しました。

しかし、その頃勢力を伸ばしてきた勝連城主の阿麻和利を牽制するため、王の命によりほどなく中城城に移され中城按司となります。そして1458年、第一尚氏王統第6代王・尚泰久の時に阿麻和利に滅ぼされました。
伝承では、天下を狙う阿麻和利が、首里と勝連の間に立ちふさがる中城按司・護佐丸を除くため、護佐丸が謀反を企んでいると尚泰久王に讒言(ざんげん)をし、王はこの報告を信じて、阿麻和利に護佐丸討伐を命じました。護佐丸は首里王府軍の旗を掲げて攻めてきた阿麻和利軍を見て謀りごとと見抜きつつも、王への忠誠心から「王府軍には逆らえぬ」と、幼児だった三男を乳母に託して落ちのびさせ、妻子もろとも自害します。その後、阿麻和利も讒言がばれて王府軍によって滅ぼされたと伝えられています。
この出来事は「護佐丸・阿麻和利の乱」と呼ばれ、沖縄独特の芸能である「組踊」などの題材にもなっています。もっとも、「忠臣・護佐丸、逆賊・阿麻和利」という構図は首里王府に基づく見方で、阿麻和利こそ農民たちの英雄だったとする説もあり、琉球史最大の謎に包まれた事件です。

確かに、勝連城での解説は阿麻和利が民衆の味方として説明されていた。