墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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国史跡・勝連城(世界遺産:琉球王国のグスク及び関連遺産群) 沖縄県うるま市勝連南風原

沖縄2日目はレンタカーで3つの世界遺産・グスクを中心に回ってみた。

 

「琉球王国の城(グスク)及び関連遺産群」が世界遺産として登録されたのは2000年で、5つのグスク(首里城、中城城跡、座喜味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡)と、その関連遺産の4つの遺物(園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)の9ヶ所が登録されている。

 

世界遺産と無形文化遺産 文化遺産オンラインによれば、琉球列島では14世紀中頃には三つ王国(南山・中山・北山)が鼎立し、15世紀前半に統一がなされて琉球王国となった。今帰仁城・座喜味城・勝連城・中城城は、いずれも三国鼎立期から琉球王国成立期にかけて築かれた城。首里城は中山国王の居城として14世紀に築かれ1429年から1879年まで琉球王国の政治・経済・文化の中心となった。

 

この日は、今帰仁城跡(なきじんじょうあと:13世紀末~15世紀初期・北山王統の居城)のみ少し離れているので、勝連城跡(かつれんじょうあと:13~14世紀に築城)→座喜味城跡(ざきみじょうあと:15世紀前期築城)→中城城跡(なかぐすくじょうあと:15世紀中期に整備)を車で訪ねた。

 

最初に訪れた勝連城では休憩所のある無料駐車場に車を停めた。城跡には囲いもなく自由に見学できるが、こちらのルートは整備中で立入禁止。

 

その脇に立っている”勝連町”の説明板。

国指定史跡 勝連城跡
勝連城は、阿麻和利(あまわり)の居城として知られ、その前の城主は茂知附(もちづき)按司(※あじ:地方の支配者)であったと伝えられている。1458年、中城城主の護佐丸を滅ぼした阿麻和利は、その勢いで首里城を攻めたが大敗し、その後、城は廃城になったといわれている。
城跡は、一種の梯郭式山城で、一の郭・二の郭・三の郭・四の郭・東郭からなり、四方に琉球石灰岩の切石の石垣をめぐらしている。発掘調査の結果、一の郭に規模不明の瓦葺建物跡、二の郭に礎石を有する殿舎跡が確認されている。また、城内からは多量の輸入陶磁器をはじめ武器や武具、古銭などが出土し、なかでもすぐれた元様式の青花陶磁などから当時の繁栄ぶりをしのぶことができる。

勝連町教育委員会

 

こちらは現在の見学路脇にある説明板。

国指定史跡 勝連城跡

画は、東方から見た勝連城復元鳥瞰図。遠方の海は中城湾、左上方が中城城です。
口碑伝承では、初代城主は英祖王系・大成王の五男であったといわれています。その後勝連按司は4代続き、6代目に世継ぎができないことから養子縁組により伊波グスクの伊波按司の六男が迎えられています。続く7,8番目は交代の理由は判りませんが浜川按司になっています。そして9番目は茂知附按司となります。しかしこの按司は圧政を敷き酒に溺れたことから、人々の信頼の厚い阿麻和利によって倒されます。彼が10番目の城主になってから勝連はますます栄えることになったとあります。阿麻和利は琉球国王の尚泰久の娘を妻にするほどの力をもち、中城城の護佐丸を撃ち天下の統一を夢みたが1458年王府軍に攻められて落城してしまいます。

 

こちらは休憩所内にあった説明板。

少しずつ詳しさが違うのでこちらも。

勝連城跡の由来と歴史
勝連城跡は、琉球王国が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司、阿麻和利(あまわり)の居城として有名です。若くして勝連城の按司となった阿麻和利は、人々から慕われ、海外貿易によってますます力を付けました。時の琉球国王・尚泰久(しょうたいきゅ)は、阿麻和利に脅威を持ち、自分の娘・百十踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせます。しかし、阿麻和利は国王の重臣で中城城の護佐丸を1458年に滅ぼし、さらに王権奪取をめざし首里城を攻めましたが、大敗して滅びました。阿麻和利が滅ぼされたことによって、首里を中心とする中山の王権は一段と安定しました。
阿麻和利や勝連城跡について、沖縄の古謡をまとめた「おもろさうし」には当時の繁栄ぶりを謡ったものがたくさん収められています。それを裏付けるように、勝連城跡からは中国製やその他東南アジアの陶磁器などが多量に出土しています。城は、四方に眺望のきく比較的傾斜の急な孤立丘を取り込んで築かれており、外敵をいち早く確認できることや、南側に良港を控えていることなど、極めて良好な立地条件を備えています。

 

説明を読んだのは後からで、このときはまず最頂部を目指した。

 

現地説明板からQRコードでうるま市の公式サイトにつながるようになっており、360度の写真にイラストを合成した攻防の様子をスマホで見ることができる。

言語選択|世界遺産【勝連城跡】公式webサイト│沖縄県うるま市

 

 

 二の郭への登り道。カーブが優美だった。

 

二の郭へ上がる直前の傾斜した石段。 

 

二の郭には、17m×14.5mの大きな殿舎の礎石が残っていた。

 

逆サイドから。

 

背後に少し上がる石段もある。

 

斜面沿いに祀られている火の神・ウミチムン(3個のカマドの神)

 

その隣のウシヌジガマ。危険が迫った時に身を凌いだ場所で、斜面上の一の郭にある御嶽脇の穴と繋がっていたという伝説があるそうだ。

 

一の郭の石垣。

 

最後の登り。 上るにつれて階段幅が徐々に狭まる構造は、敵が攻め入っても一挙に侵入できないように考えられているそう。

 

壁に沿っているのは横からも攻められるように。

 

 

一の郭は遠くまで見晴らしがきく気持ちの良い場所だった。

 

 城を守る御嶽。

玉ノミウヂ御嶽
勝連を守護する大きな霊石をご神体とする御嶽です。ここでは、村の繁栄が祈願されていました。霊石の表面が平坦にされていることから、グスク時代には、建物の基礎に利用されていたとみられます。発掘調査により、かつてこの曲輪には宝物殿のような建物があったことが分かっています。また、霊石脇にある洞穴は「かつては二の曲輪のウシヌジガマと繋がっており、有事の際の連絡路として使用されていた」という伝説が残されています。

 

標高は100mほどになる。石積みの上は立入禁止。

 

東側の先には平安座島や浜比嘉島。

 

島へ渡る海中道路をズームで。

 

西側をパノラマで。

 

南側眼下に二の郭。 

 

まだ朝のうちだったので最初は無人だったが、途中でバスが何台も到着して大賑わいになった。

 

二の郭へ下りる際に振り返って。石積みの傾斜は険しい。

 

石積みの解説。

沖縄のグスクの石積みは、大きく分けて三種類の積み方があります。自然石を大まかに加工して積んだ「野面(のづら)積み」、四角い切石を水平に積み上げた「布積み」、多角形の石を亀甲型に積んだ「相方積み」があり、野面積み→布積み→相方積みと発達したと考えられています。勝連城の石積みは、そのほとんどが「布積み」で積まれています。また、鈎状に組むことで、強度を増した工夫も見られます。 

 

ここは相方積みか。

 

地面の敷石の隙間で。

 

うねうねのカーブが気持ちよい。

 

石段を降りる途中で。

 

下の芝生のところを行ったりきたりした。

 

ビルバオのグッゲンハイム美術館的では(行ったことはないですが)

 

思わず自分もタイミングを合わせてしまった。

 

 休息所前の屋外模型越しに。

 

公式サイトには空からの映像もあった。 

www.youtube.com