墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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神田界隈の寺社とモダン建築・1 和泉橋~海老原商店~岡昌裏地ボタン店~柳森神社

神田界隈といっても神田駅ではなく秋葉原駅~御茶ノ水駅の辺り。

 

「東京モダニスム」というアプリをときどき見ている。下記は銀座1・2丁目界隈を訪ねたときの様子。

鈴木ビル、竹田ビル、ヨネイビル、奥野ビル(銀座アパート)など 東京都中央区銀座1・2丁目の近代建築 - 墳丘からの眺め

 

秋葉原駅の南西あたりに数軒載っていたので訪ねてみることにした。

地下鉄日比谷線の秋葉原駅からのアプローチ。南側の出口からすぐの神田川を渡った。

 

橋名は「和泉橋」

 

橋の解説板があった。

和泉橋
この橋を和泉橋といいます。「御府内備考」には藤堂和泉守屋敷前の通りに架かるゆえに呼名としたとあります。橋を渡った右側が和泉守の屋敷跡で、神田和泉町の町名が残っています。
神田川の南岸沿いには、柳を植えた土手が築かれていたので、この辺を柳原といい、橋の北側一帯を向(むこう)柳原といいましたが、明治初年ごろに、柳は枯れたり取り除かれ、また関東大震災後の区画整理で、土手も平になりました。橋はたびたびの火災で焼けましたが、明治25年(1892)に鉄橋となり、欄干の唐草模様の中に、神田和泉の文字が崩し字模様になっていました。
大正5年(1916)に鋼橋に架け替え、さらに昭和2年(1927)帝都復興事業の一環で拡張されました。長さ35.8m。幅44m。鋼橋。
平成元年3月 千代田区教育委員会

 

近くにもうひとつ説明板があった。

柳原土手跡
「江戸名勝志」に”柳原土手西は筋違橋(元の万世橋)より東は浅草橋迄の間、長さ十丁余(約1.1km)つづけり。柳樹多くあり”とあり、昔このあたりは土手で柳の並木がありました。「柳森神社記”によると長禄2年(1458)太田道灌が江戸城の鬼門よけに、柳を植えさせたとあります。又享保(1716~35)のはじめ将軍吉宗が昔の柳が枯れて柳原土手の名だけになっていたので植えさせたのだともいいます。
昔は町屋が土手の南側下まで並んでいたので、土手上を人は通行していました。寛政6年(1794)幕府は土手沿いの人家を取りはらい火除地とし、この明地にその後老中松平定信は、凶災に備えてお救い米を貯蔵する籾蔵を建てました。安政3年(1856)この籾蔵は葛飾郡小菅村に移されたため翌年夏よりこの跡地に又町屋ができました。柳森稲荷(柳森神社)は土手下にあって元禄8年(1695)はじめて社が完成し繁昌したといいます。故に稲荷河岸とも呼ばれていました。関東大震災(1923)で社殿は焼失しましたが再建され境内に力石などが残っています。又土手は昔、葭簀張(よしずばり)の古着屋、古道具屋が店を並べていたそうです。明治6年(1873)土手は崩されました。
平成元年3月 千代田区教育委員会

 

下記の方のブログには、柳原土手は神田川の右岸だけ築かれ、増水時に対岸(向柳原)は貯水池状態として内神田や日本橋の市街地を保護したとあった。

柳原堤 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

 

橋のそばに鉄輪の廻る石柱があった。てっきり昔の橋の親柱かと思ったが、○○揚場と彫られているように見える。船をつなぐ柱にしては大きいが。ちょっと調べたがわからなかった。

 

いいsabiだ思ったらピンボケに・・・

 

橋の南で西に折れると、通り沿いに素敵な看板建築があった。

・海老原商店

 

隣の建物が無くなって側面が露出してしまったが、奥に長い建物であることがわかる。

一般社団法人 千代田区観光協会のサイトには隣り合う看板建築も写っていた。

上記サイトの解説によれば神田須田町は中央通りを挟んで西側は、戦災での焼失を免れたので看板建築が残ったのだそうだ。

 

ストリートビューで時間を遡ると2014年まで右の3軒?が残っていた(下は2009年のもの)

 

その少し先に残る岡昌裏地ボタン店。

日曜で定休日だったが現役の店舗のようで、ここがかつて洋服店街だった時の名残りをつないでいる。

海老原商店も岡昌裏地ボタン店も「東京モダニスム」 には記されていないが素敵な建物だった。

 

ボタン店の斜め向かいに柳原神社があった。境内へは階段を下りていく。

千代田区観光協会のサイト・柳森神社に下記の興味深い解説があった。

長禄2年(1458年)太田道灌が江戸城の鬼門除として現在の佐久間町一帯に植樹した柳の森に鎮守として祭られたのがはじまりとされ、万治2年(1659)に神田川堀割の際に現在地に移りました。柳の樹も堀の土手に移植され、江戸の名所になりました。境内の福寿社は「お狸さん」とよばれ、五代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に創建したといわれています。境内の13個の力石群が千代田区の有形民俗文化財に指定されています。

 

石段を降りたところにある拝殿。

こちらの方のブログ・神田ふれあい橋と柳森神社 - 神田川のページには、低い位置にあるのは、新たに掘られた川の堤の内側に移されたからだろうと推測されていた。そう言われると納得する。

 

それほど広くはない境内に多くの摂社・末社が祀られる。

 

観光協会サイトで触れられていた力石群も。

 

こちらも解説にあった”おたぬきさん”の福寿社。

 

おたぬきさんの石像も。「他を抜く」として勝運、出世運、金運に御利益があるそう。

 

下から上がるときに富士塚(跡)に気づいた。

 

詳しい解説板が。

千代田区指定有形民俗文化財 平成10年(1998)4月指定

富士講関係石碑群

柳森神社は、延宝8年(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祠した富士浅間神社を合殿・合祠しました。また「東都歳時記」には、天保期(1830~1844)ころの「富士参」の例として柳森神社があげられています。これらのことから、柳森神社は富士講に関わりが深い神社であり、富士塚なども境内に築かれていたと思われています。この塚が明治時代以降、何らか理由で一度廃れてしまい、これに対して昭和5年(1930)に周辺の富士講によりあらたに富士塚が再建されました。本件の石碑群は、この時再建された富士塚の周辺に、移設あるいは設置されたと思われます。しかし戦後には富士講そのものが廃れてしまい、昭和35年(1960)に富士塚は破却されました。この際、余った黒ぼくの石を境内の東南隅に積み上げて小山と築き、この周辺に富士講石碑群を設置し直しました。こうして石碑だけが富士講の信仰の痕跡として残されることとなりました。

(中略)

富士講とは、浅間信仰の信者が組織した講であり、夏季に富士山に登山して祈願・修行をしました。江戸時代、特に町民・農民の間で流行し、江戸にあっては沢山の講社が組織され俗に「江戸八百八講」などとも称されます。これらの講社の内から、居ながらにして富士登山が出来る様に富士山とその山内の修行場などを模した塚を築くことが行われるようになりました。この様な塚が富士塚です。富士講の信仰は、江戸時代においては幕府の度重なる禁令に抗うかのように隆盛しましたが、明治以降の交通の発達、特に東海道線の開通による登山道、登山方法の変化や、入山に際しての女人禁制の撤廃による登山のあり様そのものの変化の中で、徐々に富士講は数を減らし始め、第二次世界大戦前後には、多くの講社が姿を消していきました。
したがって富士塚の幾つかも徐々に破却されていきました。都内では、現在50前後の富士塚が現存するばかりですが、「下谷坂本の富士塚」(台東区)、「豊島長崎の富士塚」(豊島区)、「江古田の富士塚」(練馬区)は国の有形民俗文化財に指定されているなど、幾つかは文化財として保護されはじめています。
「富士講関係石碑群」は、江戸時代以降、昭和初期まで当地域に存在した富士講に関わる記念碑であり、千代田区内とその周辺におけるこの時代の信仰の一端を示してくれる貴重な資料です。
平成11年(1999)3月 千代田区教育委員会

 

道路側から見た”冨士塚”の残った部分。

 

参拝時には2,3人しかいなかったが、急に大勢の団体で賑った。

 

趣のある社務所の屋根。

 

すぐ隣に「かんだふれあい橋」という歩道橋があった。 

 

新幹線のすぐ下を通る。下は神田川。

東北新幹線の工事用の橋であったが、工事後も民生用に残されたと、次の方のブログにあった。神田川4

 

この界隈、沢山の方々のブログに取り上げられるような著名な場所であることを後から知った。

 

新幹線の隣に上野東京ラインの高い高架、その隣は山手線・京浜東北線の高架。

くぐった先が万世橋。

つづく。