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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

狛江市立古民家園(むいから民家園)旧荒井家住宅主屋・旧高木家長屋門 東京都狛江市元和泉

 亀塚古墳の探訪後、兜塚古墳へ向かう途中に茅葺屋根があって引き寄せられた。

バス通り沿いに「狛江市立古民家園」と書かれた入口があった。

 

公式サイト・むいから民家園(狛江市立古民家園)によれば、江戸期の民家と長屋門が移築されていて、元和泉一丁目に残されていた旧荒井家住宅主屋が、小田急線の連続立体交差・複々線化事業により解体されることになったことを期に、市民による保存運動が興り、平成14年に狛江市立古民家園(愛称むいから民家園)として開園し、平成22年に市内西野川に残されていた旧髙木家長屋門も移築・復元され、現在に至っているとのこと。

 

「むいから」とは、Wikipediaには当地で古くから屋根葺きに用いられていた、麦から(麦藁)の転訛と紹介されていた。

 

農家の庭のような広場に面して建つ、旧荒井家住宅主屋。

 

建物についての説明板。

狛江市指定文化財(建造物)
旧荒井家住宅主屋 指定年月日:平成3年11月12日
この古民家は、かつて元和泉一丁目に所在し、江戸時代後期頃に建築されたと考えられます。泉龍寺の山門の突き当たりにあったことから、屋号を大門前(だいもんさき)と呼ばれていた荒井家の主屋でした。
荒井家は、江戸時代の後期、農業を家業とし、また、村方の医師でもありました。
建築当初の主屋は、直屋(すごや)で、桁行7間、梁行3間、三ツ間取りヒロマ型でしたが、江戸時代末頃に、ヒロマの後方部を1間半拡張して、角屋(つのや)とし、整形四ツ間取りに改修されました。また、養蚕のために屋根に煙出しを設けるなどの工夫が見られます。
明治時代以降には、チャノマを間仕切ってナカベヤや小部屋を造ったり、内便所や縁側を付けています。
この古民家は、小田急小田原線の立体交差及び複々線化事業にともない解体保存され、平成14年に当地に移築されました。再建にあたっては、角屋の時期の状態に復元し、使い勝手のために縁側を設けました。土間境やザシキ、デイ境の柱を切って差鴨居を入れたり、ザシキに京呂組の梁組が使われていることなどに特徴がみられます。

 

広い縁側が気持ち良さそう。 

 

屋根の上の煙出し。

 

土間から座敷。

 

土間にはカマドも並んでいた。

 

板の間。風が強い日で、扉は開け放してあるからかうっすらと埃が。昔は掃除も大変だっただろうと思われた。

 

 小学生の5,6人のグループが仲良く昔遊びや鬼ごっこなどに興じていた。

 

側面から。

 

裏手から。

 

茅葺屋根も”くびれ部”のような部分に惹かれる?

 

逆側の側面の深い屋根。

 

逆光になってしまったが、見事な茅葺きだった。

 

園内には井戸もあった。

 

こちらが旧高木家長屋門

狛江市指定文化財(建造物)
旧髙木家長屋門 指定年月日:平成22年9月10日

長屋門とは、主に武家の屋敷門として造られ、門の両脇に長屋を設けたものです。農村でも名主など、格式のある家に建てられることがありました。
この長屋門を立てた高木家は、江戸時代に覚東村(がくとうむら)の名主を務めていました。
建築を請け負ったのは、和泉村の大工棟梁飯田栄八で、安政6年(1859)に建てられました。栄八は、地元の大工として、泉龍寺の鐘楼門や山門の建築にも携わっています。
建築当初の門の構造は、両開きの門の南北両側に、ニ間四方の部屋が設けられていました。南側の部屋は、床、壁、天井に板を張りつめた穀倉でした。北側の部屋は土間の納屋でした。屋根は、寄棟造の茅葺屋根でした。
その後、北側の納屋が馬屋になるなど、部屋の用途が変わり、改築がなされてきましたが、江戸時代に遡る貴重な建造物として、保存に向けて取り組みがなされました。平成11年に解体され、部材を保管していたものを、平成21年に移築・復元がなされました。
現在、市内に残る唯一の長屋門です。

 

門の外側から。

 

民家園につづくように通り沿いに緑地があった。 一瞬墳丘に見えた。

 

西河原自然公園という名前。

つづく。