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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

大塚古墳(1号墳・復元古墳) 神奈川県横須賀市池田町

前回のつづき。

横須賀市自然・人文博物館で古墳時代の企画展を見た折に、実際の横須賀の墳丘も一ヶ所訪ねてみた。

 

横須賀中央駅から京急に乗って4駅目、北久里浜駅で下車。 グーグルマップにも「大塚復元古墳」として載っているので、スマホを頼りに線路沿い・崖下の道を進む。

 

途中に山の中に入る謎の入口があった。

カードキーでしか入れないトンネルの奥に、標高50mの丘の上にあるマンション、ルネ北久里浜ソラヒルズへ上がるエレベーターがあるとのことだった。

振り返っての一枚。

 

道なりに進むと丘から離れ、開渠を越える。

 

目指す場所は別の丘の上。横浜横須賀道路が丘を貫いていた。

 

斜面にへばりつくような急坂を上る。左は幼稚園の入口。

 

車道部分を上り切って振り返ったところ。

 

さらに階段が待っていた。

 

丘の上には整然とした住宅街と横須賀市立大塚台小学校があった。

 

小学校手前の広場。この真下をさきほどの自動車道が通っている。

 

道なりに進むと墳丘らしきものが見えてきた。わくわくの瞬間。

 

きれいに復元された前方後円墳があった。

 

前方部左裾の稜線から墳丘上へ。

 

前方部上から後円部。

 

後円部上には主体部の跡が示されていた。

 

隣にあった解説板。 

大塚古墳の主体部について
大塚古墳の主体部は、木の棺を直接墳丘の中に埋めた木棺直葬です。埋葬された人物の遺骸や木棺は残っていませんでしたが、木棺を置いた棺床部から、直刀・刀子・鉄鏃・耳環・ガラス製小玉などの副葬品が出土しました。

 

後円部から前方部。

 

くびれ部。右の置くは小学校の教室になっている。墳丘を眺めながら勉強できるとは。

 

墳丘横の四阿に数枚の解説パネルが設置されていた。

大塚復元古墳について

大塚古墳は三浦半島最大の前方後円墳で、実際はここから北東方向に約80mほど離れた、標高77m前後の山頂部にありました。
大塚古墳は土地区画整理事業により姿を消してしましたが、その姿を後世に伝えるため、大塚古墳が作られた当時の姿をここに復元しました。

区画整理前の吉井・池田地区

昭和59年頃の吉井・池田地区の様子です。当時は緑豊かな丘陵が広がり、畑や水田もみられました。大塚古墳は、写真左橋之丘陵の上にありました。

発掘調査中の大塚古墳群
発掘調査中の大塚古墳群の様子です。6基の古墳が見え、やや上方に鍵穴形の平面形をした大塚古墳があります。

 

吉井・池田地区の遺跡について。

吉井・池田地区には様々な時代の遺跡が8ヶ所ありました。
大塚台遺跡では縄文時代早期の住居跡や、太平洋戦争中の高射砲陣地跡などが発掘され、青池遺跡では縄文時代中期の土器片などが発掘されました。
三足谷遺跡では弥生時代後期から古墳時代初頭の住居跡や方形周溝墓と言われる墳墓などが発掘され、大塚古墳群では古墳時代後期の古墳6基が発掘されました。大餅遺跡、上吉井北遺跡、上吉井南遺跡などでは、古墳時代後期から奈良・平安時代の住居跡が発掘され、西谷遺跡では戦国時代頃の石組暗渠などが発掘されました。

 

全部で6基が検出された大塚古墳群について。

大塚古墳群
大塚古墳群は故赤星直忠博士により大正13年(1924)に発見されました。
昭和27年(1952)と平成4蚊ら年(1992~1994)に発掘調査が行われ、前方後円墳3基と円墳3基が確認されました。

1号墳
大塚古墳です。詳しくは「大塚古墳について」のパネルをご覧ください。

2号墳
全長17.1m以上、後円部径12.8mの前方後円墳で、周溝のみが残されていました。周溝から土師器甕が出土しました。築造されたのは7世紀前半とされています。

3号墳
径約15mの円墳で、周溝のみが残されていました。周溝内から、須恵器や土師器の坏、短頸壺が出土しました。築造されたのは6世紀後半とされています。

4号墳
全長19m、前方部長5.2m、後円部径約14.7mの帆立貝式前方後円墳で、墳丘の一部と周溝が残されていました。墳丘中(第1主体部)と墳丘下(第2主体部)で埋葬施設が確認され、直刀・刀子・鉄鏃・玉類が出土しました。また、墳丘下や周溝からは、須恵器甕・横瓶が出土しました。築造されたのは第1主体部が6世紀末~7世紀初頭とされ、第2主体部が6世紀後半とされています。

5号墳
径14.5m~14.8mの円墳で、墳丘の一部と周溝が残されていました。墳頂部や周溝から須恵器横瓶・提瓶・土師器坏が出土しました。築造されたのは6世紀末~7世紀初頭とされています。

6号墳
径19mの円墳で、周溝のみが残されていました。周溝から土師器坏が出土しました。築造されたのは7世紀前半とされています。

 

上記のうち、全長31mの前方後円墳の1号墳が場所を変えて復元された。

大塚古墳について
大塚古墳は、大塚台の丘陵頂部にあった前方後円墳で、標高約78mの後円部の上からは、遠く富士山や東京湾のはるか遠くまでが眺められました。
後円部からは、東西方向を向いた、長軸3.05m、短軸1.17m、深さ35cmの規模をもつ浅い土坑状の棺床部が確認されています。棺床部は棺が置かれた場所ですが、木製だったためか棺は残っていませんでした。
1952年と1992~1994年の調査で、棺床部を中心に直刀2点・刀子1点・鉄鏃15点以上・耳環2点・ガラス製小玉40点以上などが出土し、棺床部上の封土中から割れた須恵器甕が1個分出土しました。


墳丘は正確に東西方向を向いていました(※後円部が東向き)
前方部の幅が後円部の径より狭く、前方部と後円部の高さがほぼ等しい点が特徴です。この墳丘は旧表土を整地した後、自然地形を削り出し、その土砂を約80cmほど盛り上げて造られていました。周溝の底から墳頂までの高さは最大4.2mです。
前方部南西コーナー付近を除き、幅1.5~2.8m、深さ0.5~1.1mで、断面形が逆台形の周溝が墳丘の裾部分を廻り、前方部南側では最大幅7mに広がっていました。葺石や埴輪などは確認されませんでした。

 

全長31.3m、後円部径18.8m、前方部長12.2m
前方部幅14.2m、くびれ部幅9.8m

 

非常に興味深かったのは、「墳丘の規格」 についてのこちらの解説。

大塚古墳の復元
前方後円墳の設計規格については多くの研究があり、古墳を構成する要素(墳丘の長さ、後円部の径、周溝の幅など)の比が比較的単純な値となることが多いことが知られています。

大塚古墳の設計規格については、1997年に刊行された発掘調査報告書で詳しく検討され、後円部の径をほぼ6分割した数値=3mが基本単位となり、墳丘の長さ・くびれ部の幅の比が、基本単位数で10:6:5:4:3になることが報告されています。

大塚復元古墳の墳丘外郭線の形は、基本単位を3mとし、各部の単位数を10:6:5:4:3として復元したものです。墳丘上面の平面規模は前方部幅が1.5単位、後円部径2.5単位と推定し、墳丘の高さは墳丘斜面の角度と墳丘上部の規模が整合する位置とし、この結果、前方部と後円部はほぼ同じ高さになりました。
周溝部については保存状態が良好であったので、その平面部をカラーアスファルト舗装で表現しました。主体部については棺床部の底の形を銅板で表現しました。また、大塚古墳は起伏のある場所にあったので、可能な限り本来の地形を復元するように努めました。特に墳丘の西側部分が最も本来の地形に近く復元されています。

 

前方後円墳の規格(設計原理)については、2年前に岡山大学の新納教授の講義を聴いて衝撃を受けた。大塚1号墳がその設計原理に合うか否かは「点P」の位置が不明なのでわからないが。

massneko.hatenablog.com

 

 後円部の先から。

 

簡単な解説があったが、まもなく読めなくなりそうだった(全く読めない解説板も一枚あった)

 

横からパノラマで。右が後円部。

 

そのあたりには膝丈ほどの紅白梅が花を咲かせていた。

 

前方部右裾から。

 

解説版に「もとはここから北東80mの位置にあった」と書かれていたので、そうだとすると前方のグランドの左の方になる。

少しの時間、富士山や東京湾が見えていた頃に思いを馳せてみた。