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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

徳川慶喜墓・天王寺五重塔跡(谷中霊園)、寛永寺 台東区谷中・上野桜木

東京都の寺社、遺跡

前回のつづき。

これまで何度も上野へ行きながら、谷中霊園寛永寺を訪れたのは初めてだった。

谷中霊園の案内図にあった「徳川慶喜墓所」に惹かれてそちらの方向へと向かった。

 

広い墓地を迷いつつ、木立の方へ。

 

途中に大きな五輪塔があったが、どちらの方のものかわからず。

 

柵に囲まれた一画が慶喜公の墓所だった。

 

ガイドと一緒の方もいて、なかなかの賑わい。

 

説明板があった。

東京都指定史跡 徳川慶喜
所在地:台東区谷中7-2 寛永寺墓地内
指定:昭和44年3月27日
徳川慶喜(1837から1913)は、水戸藩徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、大5代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35年(1902)には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。
お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。
平成22年3月建設 東京都教育委員会

 

門には葵の御紋。石碑の向こうに奥方のものと並んで2基、円墳状の墓が見えた。

慶喜公が一人だけ谷中墓地に眠っている理由を調べるとWikipediaに下記のようにあった。

朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動したためである。

 

徳川慶喜公墓地参拝後は、西の霊園管理所の方へ歩いてみた。

墓地の際の、瓦屋根の立派なお宅。

 

案内図では「ふじむらや」とあったお宅。花屋のようだった。

 

霊縁側からの「ふじむらや」 周囲が道路の、島状の敷地になっている。

 

その周囲には風情のある木造家屋が数軒集まっていた。家屋の間の細道も魅力的だった(私道のようなので深入りせず)

 

そこから北へ向かっては荘厳な桜並木。

 

駐在所の隣に五重塔跡があった。

 

寛政3年に再建された五重塔で震災も戦災もくぐり抜けたが昭和32年に放火で消失し、礎石だけが残る。

 

説明板があった。

東京都指定史跡 天王寺五重塔
所在地:台東区谷中7-9-6
指定:平成4年3月30日
谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長燿山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長耀に由来する古刹である。元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したのは、天保4年(1833)のことである。最初の五重塔は寛永21年(正保元年・1644)に建立されたが、130年ほど後の明和9年(安永元年・1772)目黒行人坂の大火で消失した。罹災から19年後の寛政3年(1791)に近江国高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとしても知られている。総欅造りで高さ11丈2尺8寸(34.18m)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和32年7月放火により消失した。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方二尺七寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石20個、地覆石12個総数49個はすべて花崗岩である。大島盈株による明治3年の実測図が残っており復原も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。
平成5年3月31日建設 東京都教育委員会

 

炎上中の写真もあった。

 

今回は天王寺や日暮里駅方面へは行かず、南に戻って寛永寺の方へ向かった。

途中にあった「すかいザバスハウス」

 

元は銭湯、今は現代美術ギャラリー。SCAI THE BATHHOUSE

 

谷中霊園沿いにある旧平櫛田中邸アトリエ。 

たいとう歴史都市研究会によって保全活動が行われている。

 

少し読みにくくなっている旧町名由来案内があった。

下町まちしるべ
旧 上野桜木町
上野桜木町は、上野公園北側の寛永寺寺域と上野台の東北麓(現在の根岸一丁目一番西側および二、三番の大部分)に二分されていた。前者は、上野花園町から独立した区域であり、後者は、谷中村の飛地であった。起立年代は、明治7年から同11年2月の間と推察する。
町名のいわれは、桜の木が多くあったことに由来する。
町内にある寛永寺は、寛永2年(1625)徳川三代将軍家光のとき建てられた。家光は、江戸城の艮(ウシトラ)の鬼門を鎮護するため、川越喜多院天海僧正に命じて建てさせたものである。寛永寺には、徳川家の墓所として6人の徳川将軍霊廟がある。

 

寛永寺谷中霊園側の山門。

 

根本中堂から続く建物の玄関。

 

本堂(根本中堂)

内部も参拝できるがちょうど終了の時間(16時)だった。 

徳川将軍霊廟の特別参拝(月2回?)は2ヶ月前の1日から受け付けているようだ。折をみて参拝したい。

特別参拝のご案内 | 東叡山 寛永寺 公式ホームページ

 

本堂前の解説板。

寛永寺本堂
台東区上野桜木1-14-11
旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治9年(1876)から12年にかけて、埼玉県川越市喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永15年(1638)の建造といわれる。
間口・奥行ともに七間(17.4m) 前面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝がある。周囲は勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造本瓦葺、二重棰とし、細部の様式は和様を主とする。
内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともすべて畳敷になっている。
平成16年3月 台東区教育委員会

 

本殿の斜め前あたりの塚に目が留まった。

 

江戸期の大名、増山雪斎(ましやませっさい:本名は正賢)が建てた虫塚碑だった。

増山雪斎(ましやませっさい)博物図譜関係資料 虫塚碑 都指定有形文化財
台東区上野桜木1-14-11 寛永寺境内
虫塚は伊勢長島藩主、増山雪斎が写生図譜である「虫豸帖(ちゅうちじょう)」の作画に使った虫類の霊をなぐさめるため、雪斎の遺志によって文政4年(1821)に建てられた。
増山雪斎は、宝暦4年(1754)に江戸で生れた。本名を正賢といい、雪斎・玉園・蕉亭・石顚道人・巣丘隠人などと号した。江戸の文人大田南畝や大阪の豪商木村兼葭堂など、広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者としても活躍した。自ら文雅風流を愛し、清朝の画家、沈南蘋に代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。中でも虫類写生図譜「虫豸帖」(都指定有形文化財東京国立博物館所蔵)はその精緻さと本草学にのっとった正確さにおいて、殊に有名である。文政2年、66歳で没した。
虫塚は当初、増山家の菩提寺寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に寛永寺に合併されたため、この場所に移転した。勧善院は、四代将軍徳川家綱の生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。
碑は安山岩製で台石の上に乗る。正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設にかかわったことが知られる。
平成25年10月 台東区教育委員会

 

増山雪斎(正賢)は、現在はナガシマスパーランドで著名な三重県長島町にあった長島藩の藩主。

Wikipediaによれば「政治面では無能であったといわれているが、文化面に関しては当時において一流の人物だったと言われている」と書かれているが、「南蘋派の精緻な画風は大名の余技とは思えぬほど優れており、田能村竹田などは気韻生動があるとして絶賛している」ともあり、「虫豸帖(ちゅうちじょう)」は、つい先月までサントリー美術館で開催されていた「小田野直武と秋田蘭画」展でも、最後の期間(12/21~1/9)で展示されていた。

 

C0021055 虫豸帖 - 東京国立博物館 画像検索を見ると、蛾やバッタ、かまどうまや芋虫、蜂、カブトムシ、金魚や蛙、カタツムリなどが事細かに描かれている。

 

虫の絵を描くにあたってモデルとした虫の霊をなぐさめるために塚を築いてしまうとは・・・

 

たまたま1/26の日経朝刊の文化面の「虫塚・人と虫に歴史あり」を読んで間もなかったこともあって「虫塚」に惹かれた。

記事を書いた柏田雄三氏は武田薬品アース製薬で殺虫剤開発などに携わった方で、虫塚の本も出されている。

虫塚紀行

虫塚紀行

 

文化面の記事によれば、現存最古の虫塚は東京都八王子市の広園寺にある室町期のもので、害虫が発生しないことを祈る江戸期に多いタイプ。明治期からは蚕の慰霊や研究・実験に使った虫を慰霊するタイプも登場するそうだ。「山川草木悉皆成仏の思想と結びついているのだろう」とあるが、寛永寺でそれを実際に見ることができて少し感激した。 

 

東京藝大側に向いた山門から出た。

つづく。