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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

田端八幡神社 赤紙仁王尊(東覚寺) へび道 東京都北区田端・荒川区西日暮里・文京区千駄木・台東区谷中

東京都の寺社、遺跡 細道・路地・小道

前回のつづき。

芥川龍之介旧居跡から西に歩くとすぐに、都道458号線の切り通しがある。

 

そこに架かる童橋(わらべばし)

 

右へのカーブで田端駅北口。 

 

南へは、谷田橋交差点~動坂下交差点を経て、本駒込駅に突き当たる。

 

童橋の西側の住宅地を回りこんでいくと田端八幡神社の本殿裏に出た。

 

拝殿正面へ回って参拝。 

 

背後は石段の参道。 

 

参道に沿って神輿蔵が連なる。

 

甍も波のようだった。

 

石段下から見上げる拝殿。

 

その右に、富士浅間社を巡る道もあった。

 

鳥居の前には橋跡のような遺構が。 説明板で、昭和初期まで谷田川に架かっていた石橋が移されたものと知った。

 

こちらが台地下の神社正面入口。大きな石碑があった。

 

説明板も。

田端八幡神社 北区田端2-7-2
この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命(応神天皇)を祭神としています。神社の伝承によれば、文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されてものとされています。別当寺は東覚寺でした。
現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年(1867)の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿前まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。
参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました。
社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成4年(1992)に氏子たちの協力のもとで再建され、翌年5月には遷座祭が行われて現在の形になりました。境内には、稲荷社のほかに田端富士三峯講が奉祀する冨士浅間社と三峰社があり、冨士浅間社では毎年2月20日に「冨士講の初拝み」として祭事が行われています。
平成9年3月 東京都教育委員会

 

八幡神社参道と隣り合うように、新しいお堂があった。

 

鮮烈な赤が目立つ、その名も赤紙仁王尊。 

 

説明板があった。

東京都北区指定有形民俗文化財
赤紙仁王(石造金剛力士像)
北区田端2-7-3 東覚寺
参詣客が赤色の紙を貼るため、”赤紙仁王”の名で呼ばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永18年(1641)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。
参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じされてきたからで、具合の悪い部位と同じ箇所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。
なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人びとのお参りをうけてきました。また、平成20年10月には、道路拡張工事のために従来の位置から約7m後方に移動し、平成21年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世の趨勢を見つめてゆくことになりました。
平成21年9月 東京都北区教育委員会

 

東覚寺による説明板には仁王像の写真もあった。

赤紙仁王尊
石仏仁王の背銘に「施主道如宗海上人東岳寺賢盛代、寛永十八辛巳天八月廿一日」と刻まれている。西暦1641年より露仏で立っていることになる。仁王は、本来清浄な寺院の境内を悪から守る金剛力士として山門の両側に立ち・・・(中略)
阿像から吽像へと祈願し、満願のあかつきにはお礼として草鞋を奉納する。祈願者、病人を見舞うため日夜歩かれるのでさぞかし草鞋が必要であろうという思いやりからである。白龍山 寿命院 東覚寺山主

 

真っ赤なミノムシのよう。しっかり貼り付いている。

 

満願成就の草鞋も多数。

 

すぐ隣に東覚寺の本堂と社務所があった。

 

赤紙や草鞋はこちらの社務所で受け付けている。実際に貼っている方がおられた。

 

春の香り。

 

お寺の前は、幅広の新しい坂道。 

 

南側・都道458号との合流は上り下りで分かれていて、ぽっかり空いたスペースが。

 

東覚寺からは谷田川跡に沿って、”へび道”に向かって歩いてみた。

不忍通りの東側に並行する一方通行の道。こちらは、通りの裏側も入口になっている肉&八百屋さん。右の細道は、左が文京区千駄木、右が荒川区西日暮里になる。

 

細道は一方通行路を斜めに横切って反対側に続き、再び一方通行路を横切る。

「三日月湖のように残った荒川区」のトタン壁。

 

その場所。点線が区の境。わすか100mほどの間に4つの区を旅できる。

 

その先で道灌山通りを渡って1kmほど南下すると、谷中から降りる三崎坂の下に出た。

バスが入っていくのが歩いた来た道。左右に通るのが三崎坂。

 

坂の上の方にあった標柱。坂の全景は撮りそびれてしまった。

三崎坂(さんさきざか)
「三崎」という地名の由来には諸説あるが、駒込・田端。谷中の三つの高台にちなむといわれる。安永2年(1773)の「江戸志」によると、三崎坂の別名を「首ふり坂」といい、30年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことにちなむという。 

 

バスの写真を撮ったあたりに「藍染川と枇杷橋跡」の説明板があった。

藍染川と枇杷橋(合染橋)跡
千駄木2-35先の区境
文京と台東の区境の道路は、うねうねと蛇行している。この道は現在暗渠となっている藍染川の流路である。
「新編武蔵風土記稿」によれば、水源は染井の内長池(現在の都営染井霊園の北側の低地)で、ここから西ヶ原村へ、さらに、駒込村から根津谷に入る。不忍池から上野の山の三杖橋(公園入口のところ)で忍川となり、三味線堀から隅田川に注ぐ。
川の名は、上流から境川谷戸川(谷田川)・藍染川などと呼ばれた。藍染の名の由来はいろいろある。染井から流れ出るから、川筋に染物屋があり川の色が藍色に染まっていたからなど。
前方の道路が交わるところに、藍染川に架かる橋があった。江戸時代の「御府内備考」や「新編武蔵風土記稿」にも同名の藍染橋があった。
川は、水はけが悪くよく氾濫したので、大正10年から暗渠工事が始められ、現在流路の多くは台東区との区境の道路となっている。
文京区教育委員会 昭和59年3月 

 

すぐそばには現役の銭湯、朝日湯。 

 

三崎坂沿いにマニアックな店があったが閉まっていた。

 

銭湯の隣から南へ向かうのが「へび道」(旧藍染川の暗渠)

結構人通りがあって自転車・バイク・車が頻繁に通っていたので写真はこの一枚だけ。

くねくねの連続カーブを堪能した。道の左側(東)が台東区谷中で、右側(西)が文京区千駄木

 

地図上でも、くねくね度合いがわかる。 

 

へび道の途中に新装開店の花が目立つ小さな店があったが、あとから女優の川上麻衣子さんの工芸品の店と知った。

www.sanspo.com

つづく。