墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

上の坂 与楽寺坂 与楽寺 東京都北区田端

先日、駒込富士神社古墳を参拝した際に、その北東の田端のエリアが気になっていたので訪ねてみることにした。

山手線の田端駅南口は崖の中腹の無人改札だった。

 

上の写真はこの階段から撮っている。

 

一応スロープもついていた。

 

階段の上の方は傾斜が不規則で古風。

 

振り返ると新幹線の高架。

 

細道が入り組む住宅地をうろうろしていると坂道があった。田端の台地は東側は線路が通る海蝕崖だが、西側もかつて谷田川(藍染川)が削った谷になっている。

 

道の脇に説明板があった。

坂名の由来は不詳です。この坂上の西側に、芥川龍之介邸がありました。芥川龍之介は大正3年からこの地に住み、数々の作品を残しました。また、この坂の近くに、鋳金家の香取秀真、漆芸家の堆朱楊成、画家の岩田専太郎などが住んでいました。
芥川龍之介は、その住居を和歌に詠んでいます。
 わが庭は 枯山吹きの 青枝の
  むら立つなべに 時雨ふるなり
平成9年3月 東京都北区教育委員会

 

坂は途中から階段になっている。

 

坂下から。

 

坂下の私有地の門の先。

 

「上の坂」を 上り返す。

 

左折するとすぐ、歩道にぽつんと説明板が立っていた。

芥川龍之介旧居跡
作家芥川龍之介(1892~1927)は、大正3年から昭和2年までの約13年間、この地(当時の田端435番地)田端1-20に住んでいました。
この間「羅生門」「鼻」「歯車」等の小説や俳句を執筆し、日本文学史上に大きな足跡を残しました。
(絵は芥川龍之介が描いた「水虎晩帰之図」)
公益財団法人 北区文化振興財団 田端文士村記念館

 

そこから南東へ90m戻ると別の坂がある。

 

こちらは与楽寺坂。

与楽寺坂
坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。「東京府村誌」に与楽寺の北西にあり、南に下る長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。
芥川龍之介は、書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いています。
平成5年3月 東京都北区教育委員会

 

坂の十字路。奥が芥川龍之介旧宅で左右が与楽寺坂。右に行くとすぐに田端駅南口に出る。

 

手すりは苔の保全のためか?

 

カーブする坂道。

 

坂下から見上げて。

 

 坂名の元となった与楽寺(いい名前のお寺です)は山門の工事中だった。

 

門前の説明板。

賊除地蔵の伝承地
与楽寺(田端1-25-1)
与楽寺は真言宗の寺院で、江戸時代には20石の朱印地を領有していました。この境内には、四面に仏を浮彫にした南北朝時代の石の仏塔があります。また、阿弥陀堂には行基作と伝わる阿弥陀如来が安置されています。当時、これは女人成仏の本尊として広く信仰を集めていたことから、ここは江戸の六阿弥陀詣の第四番札所として、多くの参詣者を得ていました。
さて、本尊は弘法大師作と伝わる地蔵菩薩で、これは秘仏とされています。この地蔵菩薩は、次のように伝承されています。
ある夜、盗賊が与楽寺へ押し入ろうとしました。すると、どこからともなく多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂にこれを追い返しました。翌朝見ると、本尊の地蔵菩薩の足に泥がついています。きっと地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになり、これにより賊除地蔵と称されるようになりました。
仏教では、釈迦が入滅してから五十六億七千万年後に弥勒が現われるまでの間は、人びとを救済する仏が存在しない時代とされています。この時代に、地蔵菩薩は、自らの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道に迷界に苦しむ人を救うと信じられてきました。そして江戸時代になると、人びとの全ての願望をかなえる仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・子育地蔵・田植地蔵・延命地蔵・刺抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人びとの救済願望に支えられて生み出されたものといえます。
平成元年3月 東京都北区教育委員会

 

門前には江戸期(?)の石碑も並ぶ。

 

石碑の先には3m近くありそうな弘法大師像。

 

こちらは本堂。

 

墓地は斜面にもかかっていた。

説明板にあった南北朝時代の仏塔を探したがわからなかった。

つづく。