前回のつづき。
美術館を出て、右に向かうとサンリオ・ピューロランドがある。多摩センターに来たのは10年以上前にここへ家族で来たとき以来。
今回は橋を渡らずに下の道へ。
200m近く北へ行くと東京都埋蔵文化財センターがある。
2017年3月12日までの企画展は「南多摩発見~丘陵人の宝もの」
入館無料。
原始から近世まで、多摩ニュータウンで発掘されたさまざまな遺物が展示されていた。
発掘調査の様子を表した展示も。
縄文期の石器類。
縄文人が鹿や猪を仕留めた落とし穴は、多摩ニュータウン地域で15,000基も発掘されている。
ずらりと並んだ縄文土器。
展示された土器の数は縄文時代が多かった。
多摩ニュータウンの遺跡や竪穴住居の数は、縄文中期をピークになぜか一旦激減する。
縄文中期のヒスイなど。
土偶も数多く。
喜んでいる顔?
怒っている顔?
入口横のガラスケースにも縄文期の土偶・人面装飾があった。
「多摩ニュータウンのヴィーナス」は大英博物館での土偶展(2009)でも展示された。
岡本太郎作のような顔(実際は逆の流れだが)
自分の目が行くのは古墳時代。
古墳時代前期の説明パネル。
列島各地に前方後円墳が出現した頃
近畿地方では、大王(おおきみ)を中心とするヤマト政権が各地の豪族との結びつきを強め、支配力を及ぼしていきます。それを示すように、3世紀後半以降、列島各地に前方後円墳などの大きな古墳(墓)がつくられるようになりました。
この多摩丘陵でも、低い墳丘をもつ周溝墓が出現し、南西部では複数のムラが形成されます。ムラでは鉄製農具の普及により農地の開墾が進み、開発が一時的に活発化しました。しかし、ほどなくして人々は再びこの丘陵から姿を消してしまいます。
その前には、町田市の小山ヶ丘出土の東海西部系の土器など。
古墳時代後期のコーナー。
その説明文。
台頭する新興勢力
6~7世紀になると、4世紀後半以降、人の活動が途絶えていた丘陵には古墳群や横穴墓群が出現します。これらの墓には、新たにこの丘陵に移り住んだ集団の有力者とその親族が葬られたと考えられます。彼らは、丘陵の開墾や、土器・木器作りなどの手工業生産を生業としていました。
この頃の住居には、朝鮮半島から伝わったカマドが普及し、日常生活のうえでも大きな変革があった時代です。
底に多数の小穴が開いた甑。蒸す調理も行われていた。
古墳時代後期の横穴墓のコーナー。
石積みを有する横穴墓
横穴墓とは、崖や斜面をくり貫き、内部に河原石などを敷き詰めて墓室を形成したものです。横穴墓は複数で掘削されることが多く、多摩ニュータウン地域及びその周辺からは、12群46基が発見されています。
No.313遺跡では、墓の入口に大規模な石積みのある横穴墓が発見されました。横穴墓の内外からは六窓鍔をもつ大刀や鉄鏃をはじめ、遠く静岡県の浜名湖西岸で生産された須恵器大甕やフラスコ形長頸瓶などが発見されました。
発掘された横穴墓のパネル。斜面をくり抜いた穴には石が積まれたし敷かれたりしていた。横穴墓を模して積まれたと考えられるそうだ。
土器からわかること、の解説も。
ここには土師器坏・甕を並べてみました。良く見ると、形や色が少し異なっていることがわかります。これは、作られた地域による差です。各地域の間で土器を比較することで、地域ごとの土器の特徴を理解すれば、土器流通や、丘陵の開発の様子などを知る手掛かりになります。多摩ニュータウン地域の場合、武蔵・相模双方からの開発がはいり、やがて周辺地域での土器生産がさかんになったことがうかがえます。
常設展コーナーでは収蔵庫が外から見られるようになっていた。
汐留地区再開発で発掘された江戸期の遺構も。手前は木樋の上水道。
汐留シオサイトの仙台藩伊達家下屋敷跡から出土した伊万里焼。
こちらはイメージ展示。動きません。
縄文衣装の試着コーナー
火おこし体験コーナー
縄目付け体験コーナー
破片組み上げ体験コーナーまであった。
2階の出入口。
上記のすぐ後ろに、遺跡庭園「縄文の村」への入口があった。
ここは縄文時代の住居跡が確認された実際の遺跡だった。
東京都指定遺跡 多摩ニュータウンNo.57遺跡
所在地 多摩市落合1-14-2
指定 平成元年3月24日
多摩ニュータウンNo.57遺跡は、縄文時代前期前半と中期後半の集落遺跡です。昭和45年に行われた発掘調査によって、縄文時代前期前半の竪穴住居跡が2軒、中期後半の竪穴住居跡が8軒確認されました。このなかには中期末のいわゆる敷石住居が3軒含まれていました。また縄文時代早期の、獣の捕獲に利用されたと考えられる陥し穴も検出されています。発見された住居は10軒ですが、同時期に存在した住居は2,3軒であったことが出土資料の検討から判明しています。なお、丘陵先端部からは旧石器時代に属する石器類も出土しています。
現在遺跡には、縄文時代前期前半と中期後半の竪穴住居が各1軒復元され、中期末の敷石住居も1軒移設されています。これらの復元住居の周囲には、当時の多摩丘陵に生育していたと考えられる樹木が多数復元植栽されています。
平成22年3月建設 東京都教育委員会
縄文中期終末(4200年前頃)の敷石住居の復元。
八王子市堀之内のNo.796遺跡で発見された敷石を移設している。
中では火が焚かれていた。
中から。
4200年前に「ただいま~」と帰ってきたときの様子?
縄文人も紅葉を楽しんだのだろうか。
斜面下には湧水があった。江戸期から続く農家の生活用水として最近まで使われてきたものだそう。
今は振り返ると小田急の高架。
こちらは縄文前期(6500年前頃)の復元住居。
平面が長方形の遺構だが、その後、竪穴の形状は円形に変わり、後期中頃(3800年前頃)以降に再び方形となるそうだ。
茅葺き屋根をそのまま地面に下ろしたように復元している。
内部はなかなか広かった。
3棟目は平面が丸い縄文中期後半の復元住居。
こちらは2軒並んだオリジナルの位置の住居跡。
北側の乞田川に向かって舌状にのびる台地の上に残された典型的な縄文時代集落の跡であるとのこと。
森の一画で人々が集っていた。
なにやら賑いがある。
なんと手作りかまどで食事会が催されていた。
ご相伴にあずかることができた。絶妙なタイミングとなった。
なんと土器で煮込んだ汁物も。
大変おいしゅうございました!
これがこの日の昼食となりました。埋蔵文化財センターのみなさま、誠にありがとうございました。
周りの皆様はまだ食事中でしたが、まだ目的地があったのでお先に失礼しました。
つづく。