墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

「生誕800年記念特別展 忍性菩薩 関東興律750年 秘仏・極楽寺釈迦如来像を特別公開」 @神奈川県立金沢文庫

これまで足を運んだことのなかった金沢文庫へ、極楽寺秘仏の特別展を見に出かけた。

(本展は12/18で終了。12/19~2017/2/9は設備工事で休館中で、2/10より「愛された金沢八景~楠山永雄コレクションの全貌~」展を開催)

カメラの電池が切れていてすべてiphoneでの撮影…

 

京浜急行快速特急に乗ると、品川から5つ目が金沢文庫で35分ほど。早い!

東口から徒歩12分とあったので歩いてみた。利用案内

スマホマップに近道が出たのでそちらを行くと高低差のある楽しい道筋だった。 

住宅地を上って行くと正面が山のようになっていたが、後でこちらは称名寺への”山道”がある称名寺市民の森と知った。

 

行きではそうと知らなかったので、途中で台地下へ降りていった。

 

なかなかいい雰囲気の階段。

 

そのまま住宅地の道を進んで金沢文庫に到着。裏口のようなところから入っていったが、正面は崖側を向いていた。

 

崖側には称名寺と連絡するトンネルがある。

 

今のトンネルの隣には中世に掘られた手掘りの隧道も残る。

 

玄関前にあった特別展の看板。

鎌倉時代真言律宗の僧、忍性(にんしょう:1217~1303)は奈良で生まれ、西大寺叡尊(えいそん)を師として真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者やハンセン病等の病人の救済に尽力し、後半生は鎌倉を拠点とし多くの伽藍や慈善施設を設け井戸を掘ったり衣服を与えるなどの社会事業を行った。後醍醐天皇から「菩薩」号を追贈されている。 

来年2017年は生誕800年にあたり、奈良国立博物館では今夏に企画展が開催されたが、金沢文庫では極楽寺称名寺が忍性により西大寺の末寺となって750年となることも記念し、忍性の関東布教や鎌倉幕府との関係にスポットを当てた特別展が実施された(2016/10/28~12/18)

 

企画の目玉は看板に写真があるこちらの極楽寺の釈迦如来像(通常は秘仏)  

重要文化財 釈迦如来立像 神奈川・極楽寺 文永5年(1268)頃 忍性発願

等身大より少し小さいくらいの釈迦如来像は清涼寺式と呼ばれる様式。平安中期に宗に渡って巡礼した東大寺の僧が、現地でインドからもたらされた像を模刻して日本に持ち帰り、京都の清涼寺に安置された。

細かい襞の衣文は両肩を覆い、髪は縄目状に編まれて渦を巻くなど独特の様式で、鎌倉期にかけてさらにその模刻が国内で造られていった。

金沢文庫の特別展には十大弟子に囲まれた釈迦如来が、極楽寺ものものと称名寺ものとが同じ展示室内で見ることができて興味深かった。

どちらも、こちらの方のブログで見られる清涼寺 『清涼寺式釈迦如来さま』より和風の顔立ちのように感じられた。極楽寺の方は最近の作と見まがうほどきれいに残っていたが、顔のつくりも現代風(某フィギュアスケーター?)に思えた。

 

清涼寺式について検索していたら、板橋区による授賞サイトに学位論文のような高校一年生のレポートが掲載されていて驚いた。

第12回櫻井賞 清涼寺式を中心とする特定の模刻像の流行(1) | 板橋区

 

こちらは称名寺の側から見たトンネル。

 

トンネル入口に金沢文庫についての解説があった。

金沢文庫称名寺文化財
右手のトンネルの先に神奈川県立金沢文庫が建つ。この一帯は「文庫ヶ谷(ぶんこがやつ)」と呼ばれていたので、中世の金沢文庫がこのあたりにあったものを推定されている。
金沢文庫は、北条実時・顕時・貞顕の金沢北条氏三代によって収集された和漢の貴重書を納めた書庫であったが、元弘3年(1333)5月、鎌倉幕府滅亡によって主を失い、蔵書は称名寺が管理するところとなった。しかし金沢文庫本の大半は、室町幕府。上杉氏・小田原北条氏豊臣秀次徳川家康・加賀前田家など、歴代の権力者によって外へ持ち出されてしまった。
現在の金沢文庫は、称名寺に伝来した美術工芸品・古書・古文書などおよそ2万点を収蔵する博物館として運営されている。大橋新太郎氏の寄付を受け、神奈川県によって昭和5年に史跡称名寺境内(後方阿弥陀院跡の芝地)に建設され、平成2年に現在地の新館に移転した。
神奈川県立金沢文庫では、国宝「四将像」(金沢北条氏歴代肖像画)・「文選集注」をはじめ、重要文化財金沢文庫文書(4149通)・「宋版一切経」(3486帖)・「称名寺聖教」(13027点)および絵画・彫刻・工芸品など、鎌倉文化の精華を伝える貴重な文化財を保管し、調査を進めるとともに、展覧会を開催して研究成果を一般に公開している。

 

国の史跡に指定されている称名寺境内には、満々と水を湛える”阿字ヶ池”があった。

 

参道の”反橋”

 

庭園に関する説明板。 

称名寺庭園
称名寺の庭園は、元亨3年(1323)に描かれた重文「称名寺絵図並結界記」によって、伽藍の配置と共に完成時の姿を知ることができます。
庭園は、金沢貞顕の時代の文保3年(1319)から翌年の元応2年にかけて造られました。
作庭には性一法師が携わり、青嶋石をしようした90数個の景石を、中島や池の周囲に大量の白砂と共に配置することなどを指示し、その満々と水が注がれた苑池には貞顕から送られた水鳥が放され、ここに伽藍の美観の要とされる浄土庭園の完成が見られました。
苑池は金堂の前池として、浄土思想の荘厳のために設けられたもので、南の仁王門を入り、池を東西に二分するように架かる反橋と平橋を渡って金堂に達するようになっています。
このような配置は、平安時代中期以降盛んになった、浄土曼荼羅の構図基づき造られた浄土庭園の系列にあるもので、称名寺の庭園は、時代的に浄土庭園の基本的な形態を残す最後のものとして、庭園史上高い評価を得ております。
平成5年3月 横浜市教育委員会 史跡称名寺境内愛護会

 

文政元年(1818)に再建された堂々とした仁王門。

三間一戸の入母屋造、軒唐破風付、銅板葺(再建当初は茅葺)で建築様式は禅宗様。木造金剛力士立像(元亨3年、神奈川県指定重要文化財)を有する。

 

反橋は渡れるようになっていた。

 

橋の上から。少し早ければイチョウの黄葉が見られたが。

 

橋上から金堂。途中に中ノ島がある。 

 

エサを求めて寄ってくる鴨。

 

天和元年(1681)に再建された金堂。

 

金堂を斜めから。桁行5間・梁間5間の入母屋造で禅宗様のつくり、屋根は本瓦葺(再建当初は茅葺)

 

 金堂の前に境内の説明板があった。

国指定史跡 称名寺境内
大正11年10月12日指定(追加・昭和47年1月31日指定)
史跡面積 155,245㎡
称名寺は、金沢山称名寺(きんたくざんしょうみょうじ)と号し、真言律宗の別格本山として西大寺末の律院で、本尊には木造弥勒菩薩立像(鎌倉時代重要文化財)が安置されています。
本寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていませんが、正嘉2年(1258)、金沢氏の祖とされている北条実時(1224~1276)が、六浦荘金沢の居館内に営んだ持仏堂から発したと推定されています。
その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍の整備が着手され、実時の子、顕時(1248から1301)の時代には、弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立され、さらに、顕時の子、貞顕(1278~1333)は伽藍の再造営を行い、元亨3年(1323)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)に荘厳された金堂を初め、行動、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させました。
しかし、元弘3年(1333)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。
大正11年、称名寺の内界である中心区域が国指定を受け、更に、昭和47年、境内背後の丘陵を含めた範囲が指定されるとともに、昭和62年には、庭園苑池の保存整備事業が行われました。
(中略)平成6年3月 横浜市教育委員会 史跡称名寺境内愛護会

 

地図の部分のアップ。

 

金堂の右手には文久2年(1862)に建立された茅葺の釈迦堂。


こちらも禅宗様で、方三間、廻縁付の宝形造。

 

伽藍の東側の広場。

 

伽藍の左手に上に登る階段がついていた。

 

称名寺市民の森の案内板があった。行きに見た住宅地に出られそうなので行ってみることにした。

 

 最初の階段を登ると石仏群。戦時中のものもあった。

 

さらに登ると赤子を抱く観音像。

 

振り返ったところ。

 

その先の尾根道。

 

再び登ると上には休憩所のように八角堂があった。金沢山の山頂になる。

 

樹木が繁っていたがところどころ開けていて眺望もあった。東側の眺め。

 

日産の追浜工場の方向。こんな眺めを楽しめるとは思わなかった。昔はよい見張り台だったろう。

 

こちらは八景島

 

南側の眺め。左右に延びる直線は金沢シーサイドライン

 

北側の葉の間をズームすると横浜ランドマークタワーがあった。

 

西へに道はなかなか急斜面。東にも降りる道があり、その先には北条実時の廟があるようだったが次の機会とした。

 

木々の間から見えた金沢文庫

 

「台の広場」という場所。

 

ベンチがあったが、その後ろの土盛りはもしかして、などと想像を膨らました。

 

 その先は突然開けて住宅地への階段。

 

隣の斜面は墓地。

 

下りて振り返ったところ。

次は新緑の季節に来てみたい。