前回のつづき。
日進での墓参のあと、4駅先の川越にある仙波古墳群を訪ねた。
川越の街の周りを西から北~東~南へと囲むように流れる新河岸川右岸の丘の上に6基の古墳が現存する。
今回も昇寛さんのサイトにお世話になる。 川越市慈眼堂古墳 » 埼群古墳館
小江戸・川越には何年か前に来たことがあるが古墳に興味を持つ以前であったため、時の鐘周辺の蔵造りの街を歩いただけだった。
古墳群があるのはそこより駅に近い、喜多院から南側。地図を見てまず喜多院を訪ねたが、後で調べると下記のサイトにほぼ同ルートが紹介されていた。
川越 古墳めぐり観光 | 川越の観光・お出かけ情報 カワゴエール
川越駅到着が15時20分頃で日没との競争になった。
駅から喜多院までは徒歩18分との表示だったので早足で目指す。
住宅街の細道を歩いていたら、大きな神社が現われた。
参道へ入って振り返ったところ。
参拝のグループがいらしたので、鳥居の前で一礼。
さらに10分近く歩くと喜多院の裏手入口「どろぼう橋」に着いた。
江戸期、川越藩の警察権が及ばなかった境内に、ここに架かる丸木橋を渡って逃げ込んだ盗賊が寺僧に諭されて改心し、最後には無罪放免となったというお話。
橋の下は空堀のようになっていた。
橋を渡ると本堂(大師堂・慈恵堂)のすぐ南に出る。境内にあった「重要文化財 川越大師 喜多院案内図」
喜多院は平安時代に無量寿寺として創建され、繰り返し兵火で焼かれるがそのたびに再興し、江戸初期に天海僧正(慈眼大師)が来ると徳川家の庇護を受け、寛永15年(1638)には川越大火で焼けたが徳川家光の命ですぐに復興した。その際に再建された建物が重要文化財に指定されているが、客殿は江戸城から移築された建物で家光誕生や春日局の間が残っている。
裄行9間の大師堂。
寛永16年(1639)の川越大火翌年に再建された近世初期の天台宗本堂の遺構。昭和46年度からの解体修理も経ている。時間の都合で石段下より参拝。
この時点で15:45だったが拝観受付は終了していた・・・
春のGW期間中に家光公誕生の間などが公開されるようなので、その時期に再訪したい。喜多院宝物特別展 - 川越大師 喜多院
本堂前の広場に面し、本堂の右手にあるのが古墳の上に建っている慈眼堂(じがんどう)で、この古墳も川越 古墳めぐり観光 | カワゴエールに詳しく記されていた。
・慈眼堂古墳 前方後円墳 全長45m、高さ5.4m 7世紀初め
石段の上から見た境内。
慈眼堂についての説明板。
重要文化財 慈眼堂
天海僧正は寛永20年(1643)10月2日寛永寺において入寂し、慈眼大師の諡号をおくられた。そして3年後の正保2年(1645)には徳川家光の命によって御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木造が安置されたのが、この慈眼堂である。一名開山堂ともよび、桁行3間(5.45m)、梁間3間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺となっている。宝形造は、四方の隅棟が一ヶ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。
平成3年3月 埼玉県教育委員会 川越市教育委員会
重要文化財の建物だった。
慈眼堂の裏は一段高くなって歴代住職が眠る墓地となっていた。市指定の史跡・考古資料となっている暦応(りゃくおう:南北朝時代初期)の古碑、延文(3年:1358年)の板碑なども安置されている。
門の前まで上がって振り返っての慈眼堂。
前出の昇寛さんのサイトに「東西に軸をとる前方後円墳のようである」とあるが、確かにこちら側が後円部のような雰囲気ではある。
上記の墓地の斜面縁に立つ木。もとの地面が、さらに高く土が盛られた斜面であったことがうかがえる(?)
そこから南側、本堂の逆側は掘り込まれていて、高低差が大きくなっていた。
紅葉の名残り。
本堂側から見た後円部(?)
慈眼堂古墳についての説明板を探したが見当たらなかった。
本堂から見て左側には多宝塔。
寛永16年(1639)築、明治43年(1910)と昭和48年(1973)に移築・修繕された多宝塔だが、もとは山門と日枝神社の間にあった古墳(日枝神社古墳・次のエントリで)の上に建てられていた。
多宝塔前から北東側の眺め。周囲より少し標高が高いことがわかる。
境内東縁の山門。寛永の大火を免れた、喜多院で最古の建造物。
山門に付随する番所を内側から。
説明板があった。
重要文化財・建造物 山門
県指定・建造物 番所
山門は四脚門、切妻造で本瓦葺もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていた。冠木の上の斗供に表には竜と虎、裏に唐獅子の彫りものがあるほか装飾らしい装飾もないが、全体の手法が手堅い重厚さをもっている。棟札も残っており、天海僧正が寛永9年(1632)に建立したもので同15年の大火を免れた喜多院では最古の建造物である。
山門の右側に接続して建っているのが番所で間口10尺(3.03m)、奥行き二間半(4.55m)、起(むくり)屋根、瓦葺の小建築で徳川中期以降の手法によるもので、県内に残るただ一棟の遺構である。
平成2年2月 埼玉県教育委員会 川越市教育委員会
つづく。