宣化天皇陵は、前回の小谷古墳から北東に600mほどの場所にある。
周囲を濠で囲まれた墳丘長138mの前方後円墳で、前方部の先に遥拝所が設けられている。
パノラマで。鍵穴の形を底辺から見ていることになる。
宮内庁のサイト「天皇陵」に、わかりやすい地図が載っている。
-天皇陵-宣化天皇 身狹桃花鳥坂上陵(せんかてんのう むさのつきさかのえのみささぎ)[詳細地図]
橿原市のサイトには、文化財(陵墓)の項と観光スポットの項の両方に古墳の解説があった。
鳥屋ミサンザイ古墳は橿原市鳥屋町に所在する、墳丘長138mの前方後円墳です。前方部を北東に向けており、県道戸毛・久米線から南にその姿を望むことができます。周囲に幅約10~25mの盾形周濠が巡っています。これまでに外堤の護岸工事にともなう調査などで円筒埴輪や須恵器が出土しています。それらの遺物から6世紀前半に築造されたと考えられます。
鳥屋ミサンザイ古墳は、宣化天皇の身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)とされています。宣化天皇は第28代天皇で、継体天皇の第二皇子です。名は武小広国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと)といい、新羅が任那と百済を攻撃した時には大伴狭手彦(おおとものさでいでひこ)を派遣して防衛にあたらせた、と『日本書紀』に記されています。
第28代の宣化天皇(在位:535年~539年)は第26代の継体天皇の第2皇子で、29代の欽明天皇の兄にあたります。周囲に濠をめぐらせた前方後円墳(航空写真では美しい前方後円墳がわかる)の御陵には天皇だけではなく、先立った皇后の橘皇女(たちばなのなかつひめみこ)と孺子(じゅし)と言われる宮中に仕えた童も合葬されたといわれています。
頭(後円部)は南西側を向いており、北東端の濠の対岸が遥拝所。
宣化天皇陵の後円部のすぐ先(南西)には、鍵穴形の桝山古墳(倭彦命墓)があるが、これは幕末に前方後円形に”修陵”されている。実は一辺約90m・高さ約15m、三段築成の日本最大の方墳。築造時期は表面で採取された埴輪から、宣化天皇陵より1世紀遡る5世紀前半と考えられている。
ちなみに日本で2番目に大きい方墳は千葉県にある(一辺78m、高さ13.2m、三段築成、7世紀中頃)
岩屋古墳 龍角寺古墳群(再訪) 千葉県印旛郡栄町 - 墳丘からの眺め
宮内庁の御触書。お上の御達しの形が現代に残っている。
遥拝所から振り返ると畝傍山。主軸の方角は山頂より右へ向かっていた。
周濠の堰。
そこから周堤に沿って後円部の方へ歩いた。
写真中央がくびれ部あたり。
後円部の円形をなぞって堤もカーブする。墳丘を鑑賞しながらのハイクはとても気持ちがよかった。
パノラマで。
カーブの途中で振り返ったところ。左奥に畝傍山。
墳丘の西側は樹木が繁る丘だが、この中に新沢千塚古墳群(総数600基)が広がる。
いただいたパンフより。上記写真は右下の後円部脇から左側を見たところ。
このあと、その新沢千塚古墳群の見学コース(遊歩道)へ向かった。
つづく。