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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

丸山古墳 橿原市「古墳めぐりと博物館見学ツアー」・1

前回のつづき。いよいよ橿原市主催の「古墳めぐりと博物館見学ツアー」のスタート。

2月の天理市のツアーでは参加者20名以上で大型バスによる移動だったので今回もそのぐらいの規模を予想していたが、今回は3組4名だった。

募集枠は天理市並みであったので寂しいところもあったが、随行の文化財課の方の話をじっくり伺え、石室鑑賞も余裕充分で、参加者にとってはかえって充実したツアーとなった。

 

橿原市の古墳は、市のサイトによると、古墳時代前期の3世紀後半~4世紀に耳成山の北に弁天塚古墳をはじめとする中~小規模の古墳が築かれ、4世紀後半から築造地域が広がって大規模な群集墳である新沢千塚古墳群(4世紀終わり頃~6世紀終わり頃)が、さらに古墳時代終期の6世紀後半~7世紀にかけて丸山古墳、植山古墳、菖蒲池古墳、小谷古墳などが造られた。

各古墳の解説は市のサイトの他、橿原市観光協会サイトにも充実している。

 

見学ツアーのルートは、丸山古墳~菖蒲池古墳~沼山古墳~小谷古墳~宣化天皇陵~新沢千塚古墳の順。

 橿原神宮前駅でワゴン車に乗り最初の訪問地の丸山古墳へ向かった。 自分は今年2月以来の再訪で、”懐かしい”気持ちになった。

 

国史跡・丸山古墳は全国第6位、奈良県では最大(全長310m)の大型前方後円墳。後円部の横穴式石室も日本最大規模の28.4m。

6世紀後半頃の築造で被葬者は欽明天皇などが有力視されている。

 

後円部や前方部の斜面は段のようになっているが、後世に段々畑として改変もされていて、当初の段築とは異なるようだった。

 

木々が繁っている部分が後円部で、この部分が陵墓参考地となっていて立ち入れない。

丸山古墳と呼ばれているのは、あまりにも大きくて全体像が分からずに後円部だけを円墳とみていた時代があったから。橿原市/丸山古墳(畝傍陵墓参考地)

 

まずは後円部へ。

 

回り込んでいくと宮内庁の「畝傍陵墓参考地」 の立て札がある。

 

気になる扉。

 

このあたりが石室入口と思われたが埋まっているのでわからない。

 

その近くにある別の説明板。2基の石棺が納まっている石室内の写真がある。

宮内庁管轄の陵墓であるのに写真があるのは、平成3年(1991)に子どもが偶然に羨道入口を見つけ、その親が撮影した写真がテレビで放送されたことがきっかけとなっている。

奥の石棺の方が後から入れられたと考えられるそう。

Wikipediaにあるように、日本書紀では欽明天皇は571年に没して河内古市での殯(もがり)の後に檜隈坂合陵に葬られ、皇太夫人の堅塩媛(きたしひめ)は612年に檜隈大陵に改葬したと読めることから、御二人が合葬されているとの説がある。

 

後円部を回って東側の眺め。手前の緑のベルトはかつての周溝。

 

ズームすると小山の斜面にブルーシートが見えたが、そこは推古天皇と竹田皇子の墓との説がある植山古墳

 

今年の2月に丸山古墳から小雨の中を歩いて向かったが工事中だった。平成31年に整備完了予定とのこと(丸山古墳の現地説明板も下記に転載)


前方部の先から後円部。前の平坦面全体が前方部墳丘になる。定期的に草刈りメンテが行われているそうだが夏はすぐに雑草が繁ってしまうそうだ。

この日は年間を通しても「古墳探訪にうってつけの日」だった。

 

前方部端から北側からの畝傍山

 

前方部の裾はかつては左の建物のあたりまで続いていたが、後に墳丘を斜めに削って道が通されている。

かつての中街道 (下ツ道) で、飛鳥の藤原京と奈良の平城京朱雀大路まで南北に貫いていたこの古道は、丸山古墳の前方部に突き当たっていた。

つづく。