墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

宮山古墳(室大墓:むろのおおはか) 奈良県御所市

前回のつづき。一泊二日の初日は個人行動。

最初に向かったのは御所市の国史跡・宮山古墳。

全長238mは全国18位の大きさで、墳丘に上がることが可能で橿原神宮から車で20分と程よい距離だったのでこちらを選んだ。

古墳大きさランキング(日本全国版) 堺市

 

広場の隅に車を停めさせていただいた。瓦の家並みの後ろの巨勢山丘陵には国内最大級の群集墳、巨勢山古墳群(約700基・消滅含む)がある。

 

背面、北側の宅地の先が大きな墳丘だった。

 

スマホ地図では入口がわからなかったので、後円部の方へ回り込んで行った。

 

味わいのある小路を歩く。

 

振り返ってもよし。

 

その先の池のそばのモミジの中で小鳥が数羽、遊びまわっていた。 

 

こちらはあとで調べたら皇帝ダリア

 

板と漆喰と瓦、石の組み合わせ。

 

後円部のカーブに沿う道を進んでいくと八幡神社入口に案内板があった。

 

拝殿の左に古墳登り口のサインがある。

 

まずは拝殿で参拝。本殿は後円部に少しくい込んでいた。

 

拝殿から振り返ったところ。

 

石段を降りて左に回りこんでいくと古墳の説明板があった。

 

丁寧にふりがなが記された解説。

史跡 宮山古墳
所在地:御所市室1332番ほか
指定日:大正10年3月3日
年代:5世紀初頭
墳丘:前方後円墳 墳丘長238m、後円部径148m、前方部幅152m程度
宮山古墳は奈良盆地南西部の端に位置する古墳時代中期初頭(5世紀初頭)の前方後円墳で、葛城地域では最大の規模を誇る。墳丘長は238mで、後円部を東、前方部を西に向けている。墳丘の周囲には周濠、その周囲には周堤が巡っている。後円部、前方部とも三段築成で、各段の平坦部には円筒埴輪が並べられ、墳丘斜面には花崗岩の葺石が施されていた。
後円部の最上段には直径38m、高さ3mの円丘段があり、その上面には盾形、甲冑形、靭形、家形などの形象埴輪と円筒埴輪を立て並べた方形区画がつくられている。後円部には、2基の竪穴式石室が南北に並列して配置されており、南石室では竜山石製の長持形石棺が確認され、三角縁神獣鏡や玉類、石製品、三角板革綴短甲、鉄刀などが出土した。
前方部頂には粘土槨とみられる埋葬施設が確認され、11面以上の銅鏡の存在が確認されている。また、前方部北側には一辺約50mの方形の張出しがあり、その頂部では粘土槨が確認され、短甲や鉄鏃、鉄刀が出土した。
宮山古墳は、奈良盆地から紀伊あるいは河内へとつながる交通路が交差する要衝に位置している。後円部から朝鮮半島伽耶地域産とみられる陶質土器も出土しており、被葬者が大陸と積極的なつながりを持っていたと考えられる。
平成27年8月 奈良県教育委員会

 

Wikipediaでは、被葬者として葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)説が有力視と紹介されている。葛城襲津彦武内宿禰の子で、娘の磐之媛命は仁徳天皇皇后となって履中、反正、允恭天皇を産んだとされている。

 

八幡神社の御由緒では、古墳の被葬者として武内宿禰説を紹介していた。

八幡神社
御祭神 誉田別尊(漢風諡号 応神天皇
由緒 本殿は方一間、春日造り、境内社には春日神社と稲荷神社がある。
本社に奉納された絵馬には農耕の場面を描いたものがあって、民俗資料として貴重である。
第六代、考安天皇(日本足彦国押人尊)の室秋津宮跡は本社の辺りとされる。
背後には宮山古墳があって、南葛城地方最大の規模を有するものとして著名である。武内宿禰のとも言われるが確証はない。
平成4年5月吉日 御所市教育委員会 寄贈 御所ライオンズクラブ

 

 鳥居をくぐって、いざ墳丘へ。

 

八幡神社本殿を右手に見ながら。

 

登りつめると樹木が開けた後円部墳頂があった。

 

説明板の隣にぽっかり穴が。

 

穴の中には石棺が!

 

穴へ降りることができた。

 

石棺蓋の迫力の縄掛突起。重い石棺をここに縄を掛けて運んだとされる。

 

石棺本体に穴があり、その下に突起もあった。

 

当初からの穴なのだろうか。人は入れない大きさ(のように思えた)

 

カメラを入れてフラッシュ撮影。落とさないように慎重に。

見事な石板の組み合わせ。朱も残っているように見える。天井部は少し丸く窪んでいた。

 

床面は溜まった泥がひび割れ模様をつくっていた。

 

穴から見上げる墳丘。

 

妻も入って見学した。

 

郵便受けを開けると見学用ライトという気遣いがあったが、残念ながら電池は切れていた。

 

説明板より。

通常は横穴式石室で見られる長持形石棺が竪穴式石室で、それも置かれたままの姿で見学できる大変貴重な場所だった。

雄大な長持形石棺
後円部に2つある主体部のうち、この南側の竪穴式石室には豪壮な長持形石棺が収められている。長持形石棺は5世紀代の大王墓級の古墳のみが採用できた石棺で、宮山古墳被葬者の当時の権勢の大きさが偲ばれる。
この石棺の石材は遠く兵庫県加古川流域から運ばれた竜山石で、底石1枚、側石2枚、小口石2枚、蓋(ふた)石1枚の計6枚で構成され、全面に朱が塗られている。
蓋石の頂部には8区画の亀甲形の装飾が彫られ、各辺には2個ずつの縄掛突起がある。棺蓋の長さは、縄掛突起を含めると3.77mもあって、稀に見る雄大なものである。側石の縄掛突起や小口石の方形の装飾突起2つにも注目してほしい。
この長持形石棺は、竪穴式石室に収められたままの状態で見学できる、全国でも唯一の貴重な資料である。

 

図の部分のアップ。

 

 後円部には開口しているもの(南石室)と並んで、もう一つ石室(北石室)が埋まっている(右の光が射しているあたり)

 

北石室は発掘調査はされていないようだが、南石室と同様に盗掘を受けていると見られているそうだ。

埋葬位置のあたりには大きな靭形埴輪が復元展示されていた。

実物は橿原市奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に展示されている。

 

現地の復元埴輪の前に置かれた説明板。

石室を囲む埴輪列
後円部にある南北2つの石室をそれぞれ長方形に取り囲み、幾重にも埴輪が立て並べられた。主体部の周囲の埴輪列の状況がこれほど見事にわかった古墳はまれである。
石室の南側には、入口を南に向けた5棟の家形埴輪が軒を接して並べられ、被葬者が生前に居住した館の壮大さを偲ばせる。
その内側には靭・盾・甲冑といった武具形の埴輪が取り囲む。ちなみに、本来の靭は革で作られ、矢の束を背負って運ぶもの。盾も革製で、撃たれた矢を防ぐ。甲冑は鉄製で、防禦のために身体に着用するものであった。
その正面はいずれも外側を向いて置かれており、まさに聖域への侵入を防ぐかのようだ。生前の被葬者を護衛した親衛隊の武装状態を表現したのかもしれない。
次いで、その内側に蓋(きぬがさ)形埴輪や円筒埴輪などの1列があり、さらに石室の上には大型の家型埴輪や蓋形埴輪が立て並べられた。
復元された靭形埴輪は高さ1.43mの雄大な形象をなしたもので、矢尻(鉄鏃)や背負い紐(ベルト)の表現なども極めて写実的である。体部には直弧文を刻む。

 

図の部分のアップ。北石室の石棺は斜めを向いてしまっている。

 

前方部方向は藪に覆われていた。

 

全長238mの大きさを墳丘上で確認したかったが、すぐ先も見えず。

 

最初から充足して墳丘を降りる。ここから7km先、正面の丘陵の向こうに飛鳥がある。 

 

石段を降りて見上げる八幡神社。背後が墳丘。

 

北側へ回って見上げる後円部。

 

かつての周濠を通る小道。

 

振り返って。堤の木々は桜か。

 

国道309号のそばからパノラマで。右奥が前方部となる。

山のような古墳だった。

つづく。