3つ前のエントリのつづき。
目白台から下りて神田川を渡ると新目白通り。道路の中央を都電の専用軌道が走るがここに面影橋の停留所がある。
停留所の南側、新目白通りからはビルの裏側に天祖神社があるが、ここに魅力的な細道がある。停留所のやや西にあるビル脇が入口。
この路地も「東京 記憶の散歩地図」で知った。
少し入って振り返ったところ。都電が走っている。
最初の突き当たり、奥の天祖神社境内は少し高くなっている。
左に道は続く。
右へ曲ると境内への石段がある。右奥が来た道。
境内の周囲に沿って小道は続く。
曲がり角にマンホールが2連。
さらに回り込んで。
境内南側の鳥居の前に出た。
ご由緒が書かれていた。
天祖神社の由来 祭神:天照大神
(前略)
江戸時代には神明宮、神明神社と称していましたが、明治3年(1870)の大教宣布により、天祖神社と改められました。
慶応3年(1867)迄は、豊嶋郡高田村真言宗新義派神霊山金乗院が、別当寺となっていました。
この天祖神社は豊臣家の遺臣、小泉源兵衛が大阪夏の陣、元和元年(1615)の戦いに敗れ、この地に隠れ住み、荒地を拓き、伊勢の内空、外宮に参籠して霊感を受け、正保2年(1645)にこの神社を創祀されました。(後略)
境内の南側の道路の先に、さきほどと連続するように小道があった。
左は亮朝院の境内。小道は神田川の南側台地へ徐々に上っていく。
道幅がさらに狭まる。
同じような写真で恐縮です。
カーブを入って振り返ったところ。
坂道とクロスする。奥から来た。
坂道の上から。右から来て左へ抜ける。
左は民家だが少し標高が高くなっている。
クランクを通り抜ける。水流が刻んだ小さな谷底のようだ。
昭和の雰囲気の板壁の家もある。
最後に階段があった。
階段の上から振り返って。
ここで早稲田通りに出た。
道の向かいには子育て地蔵(西早稲田源兵衛子育地蔵)
冒頭の天祖神社を勧請した小泉源兵衛が拓いた源兵衛村の村人により享保11年(1726年)に源兵衛地蔵が安置されたことに始まっている。
「東京 記憶の散歩地図」で指摘されているように、早稲田通りはこのあたりで少し窪んでいて、昔は水の流れが横ぎっていたように想像された。