墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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村川家住宅 薬罐坂 東京都文京区目白台

今回も東京文化財ウィーク2016での特別公開。10月16日の午後に現地を訪れた。

大谷石の石垣に囲まれ、樹木が茂るお宅は薬罐坂(やかんざか)を上り詰めた場所にある。

 

南側から。奥が薬罐坂。

 

敷地内にはケヤキの大木もある。かつては幾本も道に沿って並木となっていたようだ。

 

ケヤキを背にして西方向、薬罐坂に突き当たる小道。ところどころに大きな木が残っている。

 

石垣の上、樹木を通して村川家の洋館板壁が顔を覗かせる。

 

現在も村川家が住まわれているので普段は非公開だが年に一日だけ公開される。

ただし往復葉書き申し込みによる抽選で、漏れてしまう方も多いようだった。

 

門をくぐって重厚な玄関へ。

明治44年(1911)築、大正4年・9年・昭和8年増築の国登録有形文化財。

設計(棟梁)は片山清太郎。

玄関の右側から奥に主屋が続き、右手に木造板壁の西洋館がつながる。

施主は東京帝国大学教授を務めた村川堅固(1875~1946)

西洋古代史の研究者で、1903年から3年間の欧州留学は家づくりにおいても、西洋城郭風の石蔵や洋館のステンドグラスの図柄(砂漠のピラミッド)などに影響が現れているようだった。主屋は和風だが、どの部屋にも廊下を伝って行けるよう”中廊下形式”を採用していて、大正時代に接客の多い家に用いられたこの形式の最初期の例となるそう。住まいや樹木への思いが深い方で「住」が最初に来る「住食衣主義」を提唱されていた。

村川堅固の長男の村川堅太郎(1907~1991)も西洋古代史が専門の東大教授で、世界史の教科書にも最初にお名前がある(自分も高校時代にお世話になりました)

執筆の傍らに樹木の多い庭に苔を植えたりの庭仕事をしていたとのこと。

 

こちらは玄関前の石畳脇のきれいな苔。本邸前の庭にも苔が手入れされていて、当日は敷石を歩かせて頂くこともできた。

 

玄関前の敷石も綺麗。

 

玄関の隣にある蔵は、西洋の城のように屋根の端が凹凸を繰り返す意匠を葉の影から見せていた。

 

木造の本邸2階もちらりと見えた。内部は撮影不可だった。

受付を済ませて主屋のお座敷へ。現在の村川家ご当主よりスライドを交えての貴重なお話を伺えた。

その後、10名ほどの2班に分かれて日本女子大のボランティアの方によるガイドで、廊下や洋館、2階和室などを見学した。床の間や欄間、天井、床などの丁寧なつくりや、”中廊下形式”という設計思想や、雨戸の戸袋を工夫してお座敷から庭が広く見えるようにする工夫など合理的な考えが宿る空間を体感することができた。

震災も戦災もくぐりぬけ、築105年になる大変貴重な建造物だった。

保存し修復していくことのご苦労は並大抵ではないとお察ししますが、機会を設けていただいた村川家や関係者の方々に改めて感謝申し上げます。

 

以下は都指定文化財カード(絵葉書)の解説から。

国登録有形文化財(建造物)
村川家住宅 主屋・洋館・蔵・門
西洋史学者として著名な村川堅固・堅太郎氏父子が住んだ和洋館並列の中規模住宅で、主屋・洋館・門は明治44年(1911)築です。門は桟瓦葺の腕木門で、門柱両脇は割竹を詰め貼りとし、左手に通用門をとり、外塀は大谷石です。門から主屋玄関までは花崗岩の石畳が敷かれ、玄関は千鳥破風のある風格のある造りになっています。主屋は木造2階建・中廊下型の近代和風住宅です。客間・次の間・茶の間を南面縁側に沿わせて、その奥にも鍵の手に和室を張り出し、庭を囲むように部屋を並べます。庭を挟んで西に蔵、西南に洋館があります。蔵は大正9年(1920)築、大谷石の石造で屋根は陸屋根としています。パラペットに西洋城郭風のバトルメントの意匠をとる、小品ながら堂々たる蔵構えです。洋館は書斎として建てられた平屋で、南京下見板貼りにオイルペンキ塗りとし、三角ペディメント鎧戸付き上げ下げ窓など典型的な洋館の意匠を持っています。大正4年(1915)に西方に一間を同意匠で増築し、増築部との境欄間にはピラミッドとナイル川を題材にしたステインドグラスがはめ込まれています。

 

お座敷や庭から見た主屋などの写真は3年前に文京ふるさと資料館で開催された企画展のサイトで見ることができる文京ふるさと歴史館 企画展

 

 

以下は村川家住宅に着くまでの様子。

有楽町線の護国寺駅で下車し、不忍通りを西へ350mほど進んで左の薬罐坂を上った。

車は南から下ってくる一方通行。

 

坂名の表示板。

薬罐坂(夜寒坂) 目白台2丁目と3丁目の境

江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。やかん坂のやかんとは、野豻とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。
この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869~1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
  この道を行きつつみやる谷こえて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)
文京区教育委員会 平成13年3月

 

途中で左に登る私道の石段。薬罐坂も少し切り通して傾斜をゆるくしているのだろう。

 

坂下にあった旧町名案内。一帯は昭和41年までは雑司ヶ谷町だった。

旧雑司ヶ谷町(昭和41年までの町名)
延享3年(1746)町方支配となり、雑司ヶ谷の町名がつけられた。町名の由来については、いろいろな説がある。
昔、小日向の金剛寺(また法明寺とも)の支配地で物や税を納める雑司料であった。また、建武のころ(1334蚊ら6)南朝の雑士(雑事をつかさどる)柳下若狭、長島内匠などがここに住んだので、雑司ヶ谷と唱えたという。
その後、蔵主ヶ谷、僧司ヶ谷、曹子ヶ谷などと書かれたが、8代将軍吉宗が鷹狩のとき、雑司ヶ谷村と書くべしとの命があり、今の文字を用いたという。

 

つづく。