東京文化財ウィーク2016の一環で、文京区の徳田秋声旧宅が1日限定で公開となっていたので見学した。
都営三田線の春日駅から新坂を上った本郷台地の上の静かな住宅街。
逆サイドから見ると、洋館のような造りの2階が見える。
塀の前に御影石の石碑があった。
現在も御親族が住まわれているので普段は非公開。
都指定史跡 徳田秋声旧宅
所在地:文京区本郷6-6-9
指定:昭和2年9月19日標識指定 昭和39年4月28日史跡指定及び名称変更
徳田秋声(1871~1943)は明治から昭和前期にかけて活躍した小説家です。明治4年(1841)に現在の石川県金沢市に生れました。尾崎紅葉に師事し、明治29年(1869)に発表した「藪柑子(やぶこうじ)」で文壇に初登場しました。
この家には、明治38年(1905)から73歳で亡くなるまで約38年間居住し、創作活動を行っていました。秋声は自然主義文学の第一人者として名を馳せ、「新世帯」「足迹(あしあと)」「黴」「爛(ただれ)」「あらくれ」などを執筆し、「仮想人物」で第一回菊池寛賞を受賞しています。これらの代表作はすべてこの家で書かれています。
旧宅は、明治末期に建築された母屋とその後に増築された離れの書斎、そして二階建て住宅部分、庭などで構成されています。日常愛用の蔵書、調度品、日記、原稿など、遺品もきわめて多く保存されています。指定地域面積は約445.5㎡です。
平成22年3月建設 東京都教育委員会
出身地の金沢には徳田秋聲記念館がある。下記はそちらのサイトから。
金沢の三文豪のひとり、徳田秋聲(1871~1943)は、尾崎紅葉の門下を経て、田山花袋、島崎藤村らとともに明治末期、日本の自然主義文学における代表的作家として文壇に名乗りを上げました。その後、明治・大正・昭和と三代にわたり常に文壇の第一線で活躍した、文字通り「大家」の名にふさわしい作家です。
その作品は、川端康成をして「小説の名人」と言わしめた技巧の高さとともに、つねに弱者への視点を忘れぬ、庶民の生活に密着した作風を特徴とします。(中略)
私生活では、その分け隔てのない人柄が多くの文壇人に愛されたほか、映画やダンスを好むなど現代的な面も持ちあわせていました。
門を入るとすぐに母屋の玄関があり、一部屋通り抜けると徳田秋声が38年間執筆活動を行った書斎(座敷)になる。
玄関前から左(東)側。周囲は結構建てこんでいる。
玄関前から門。
震災や戦災をくぐりぬけた貴重な明治末期の建物。お座敷には直筆原稿などのゆかりの品が置かれていたが、書棚に積まれた41巻の全集が目を惹いた。
和室の外側には縁側があってガラス戸の先に庭がある。
見学できる範囲はお座敷と縁側のみだったが、明治の文豪が”この場”で作品を生み出し続けたということを実感することができた。
庭のすぐ向こうに木造アパートがあるが、これも徳田秋声が建てたものとのこと。今も現役。外へ出て、一画をぐるりと回った南側に玄関がある。
南側はモルタルが吹き付けられていてそれほど古さは感じられないが、側面に板壁が残っている部分があった。奥の徳田秋声旧宅側からは板壁のままになっている。
アパートの名前は「フジハウス」
こちらのかたのブログによれば、漫画家の杉浦茂も一時期このアパートに住んでいたとのことだった。徳田秋声旧宅、フジハウス/本郷6丁目 - ぼくの近代建築コレクション
徳田秋声旧宅へは都営三田線の春日駅から歩いた。言問通りの菊坂下の信号のひとつ先を右折する。
なかなか見事な坂だった。
右側には苔むした石積みの擁壁。
石壁の前に説明板があった。坂名は「新坂」だが江戸時代からの坂。
新坂
区内にある新坂と呼ばれる六つの坂の一つ。「御府内備考」に「映世神社々領を南西に通ずる一路あり、其窮る所、坂あり、谷に下る、新坂といふ」とある。名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。
このあたりは、もともと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ蓋平館別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。この坂は文人の逍遥の道でもあったと思われる。
東京都文京区教育委員会 昭和63年3月
上っていくと左側が急に開けた。
ここもマンションが建つ。しかも7階建て。
柵越しの”今だけ”の眺め。
坂上から振り返ったところ。
坂上の道を突き当たりは東大正門前になる。2本先を右に折れると徳田秋声旧宅方向。
右奥が徳田秋声旧宅。
その手前のこちらのお宅も板塀や門に昭和の面影を残していた。
本郷台地は戦災を生き延びた建物が結構残っていて坂も多くて興味深い。貴重な景観をできる限り残していただきたい。
鳳明館、炭団坂、朝陽館本家 本郷の木造旅館と坂 - 墳丘からの眺め
重要文化財 旧岩崎家住宅 東京都台東区池之端 - 墳丘からの眺め
つづく。