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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

喜多見氷川神社 大山道 念仏車 狛江(岩戸・駒井地域)の文化財めぐり・その6

前回のつづき、シリーズの最終回。

 

稲荷塚古墳探訪の後、200mほど西の氷川神社を目指した。

 途中にあったイチョウの大木。喜多見小学校発祥の地でもあった。

 

そのすぐ先に氷川神社が鎮座していた。

 

境内北面には玉垣が続く。端まで200mほどある。

 

東側入口に世田谷区による解説板があった。

以下はツアーでいただいたリーフレットより。

氷川神社
伝承によると、奈良時代に創建された神社で、多摩川の近くに位置し、社殿や古い記録は多摩川の洪水によって流失したといいます。永禄12年(1569)に、喜多見の領主江戸頼忠によって再建され、その後、江戸から姓を改めた喜多見氏の庇護のもと、喜多見勝忠の代には5石余の領地の寄進を受けました。江戸時代になると、3代将軍徳川家光から10石余の朱印地を与えられました。

喜多見
喜多見氏は、小田原北条氏に仕える江戸を称した土豪で、頼忠の代に氷川神社を再建しました。頼忠の孫の勝重(のち勝忠)は、北条氏没落の後、徳川家康に召し出され、姓を江戸から喜多見へと改めました。勝忠は関が原の戦いや大阪の陣に従軍し、その嫡子重恒も大阪の陣に従軍しました。また、勝忠は僧の沢庵や茶人の古田織部小堀遠州と交流があり、勝忠の三男重勝小堀遠州に師事し、のちに茶道の流派を成して喜多見流茶道の祖となりました。
重恒の跡を継いだ重政(重恒の娘の子)は、5代将軍徳川綱吉の側近として2万石を領する大名になりますが、別家の重勝の跡を継いだ重治(勝忠の五男、重恒・重勝の弟)が刃傷沙汰を起こし、その責を受けて喜多見家はお家断絶となりました。

 

地名は江戸氏から改名した領主の名から来ていると思いきや、喜多見 - Wikipediaによれば由来は明確でなく、1300年代初期には「木田見」とあり、16世紀後半頃には「木多見」「喜多見」や「北見」が見られるとのこと。

 

なお狛江の由来は市役所のサイトには高麗との関連が紹介されている。

Q.狛江市の市名の由来は何ですか? - 狛江市役所

 

ちなみに狛江市は埼玉県蕨市(5.11km²)に次いで日本で2番目に面積が小さい市(6.39km²)だそう。

 

閑話休題

氷川神社の節分行事と神前神楽は区の無形民俗文化財に指定されている。

 

両側に木々が茂る境内参道を行くと、中ほどに小ぶりの石鳥居がある。

現代では石造の鳥居は珍しくないので見過ごしてしまいそうだが、こちらの石鳥居は承応3年(1654)に喜多見重恒と重勝の兄弟が奉納した花崗岩製のもので、高さ約3m・柱間約1.8mの明神鳥居。

狛江市中和泉の伊豆美神社には姻戚関係にあった石谷貞清によって慶安4年(1651)に建てられた鳥居(高さ2.6m、柱間1.5mの花崗岩)があり、同時期に同様の鳥居を奉納したことに何らかの理由があったと考えられるとのこと。

 

鳥居脇には世田谷区の説明板がある。

 

解説を聴いた後は拝殿へ。

 

拝殿は予想以上に大きかった。

 

拝殿前から参道を振り返ったところ。

 

後ろが本殿の屋根。

 

境内には気になる円形の生け垣があったが、古墳ではなかった。

 

氷川神社参拝後は大山道の旧道に出て道沿いに、二の橋方向へ。

途中の旧道の合流(分岐)地点に祠があった。 右が来た道の大山道。

 

祠の中には庚申塔と地蔵さま。

 

外の石柱には面白い細工があった。念仏車というそう。

 

解説板があった。

念仏車
旧岩戸村(現東京都狛江市岩戸)との境に近い、「いかだ道」と「中通」の交差した地点にある。
念仏車とは念仏を唱えながら廻すものであり、1回廻す毎にお経を一巻読んだと同じ功徳があるとされ、念仏の功徳をより効率よく広めるものとして造立されたと考えられる。当地の念仏車には石造四角柱の上部に六角形の車輪が取り付けられており、各面に六字名号の各字が刻まれている。
銘文によるとこの念仏車は文政4年(1821)11月、喜多見郷の「女念仏講中」によって建てられた。念仏講は女性のみによって構成される場合がままあり、このような念仏講による地蔵等の造立例が区内でも幾つか認められる。しかし区内で近世以前に造立された念仏車の遺例は他に見られないので、この念仏車は近世世田谷の女性による信仰の遺跡としてはかなり貴重な例といえる。
またこの念仏車の傍らの小祠には、元禄5年(1692)の庚申塔、並びに享保4年(1719)の地蔵が安置されており、近世の喜多見村における民間信仰の面影を今に留めている。
平成元年9月 世田谷区教育委員会

 

歩いてきた大山道を振り返って。緩くくねっている。

以下はいただいたリーフレットから。

大山道
大山道は、江戸中期以降に盛んになった大山詣でに利用された道筋で、メインルートは現在の国道246号にあたる矢倉沢往還になるが、三軒茶屋で分岐して狛江で多摩川を渡る津久井往還(現在の世田谷通り)も大山道として利用された。
狛江を通る際、世田谷区喜多見の知行院付近で2つのルートに分かれていました。これは多摩川の流路が変わることで、登戸の渡しの位置が変わった影響によると考えられます。ひとつは知行院付近から砧浄水場の方へ向かい駒井大通りを通って駒井にて多摩川を渡るルート、もうひとつは世田谷通りを通って狛江三叉路から南下していき和泉と猪方の境で多摩川を渡るルートで、江戸時代はおおむね駒井を通過するルートが使われていました。

 

品川道は、多摩川上流で伐った木材をいかだにして流して下流に届けた後に人が歩いて帰った道なので、いかだ道とも呼ばれていたそうだ。

 

祠から西方向。左にゆるくカーブして250mほど進むと「二の橋」で世田谷通りと合流する。

 

中央奥の道が大山道。背面に慶元寺。

 

ここで下記の赤いラインをぐるっと一周したことになり、喜多見駅まで歩いて解散した。

狛江市教育委員会の担当者のみなさま、貴重な機会を設けていただいて誠にありがとうございました。庚申塔、寺社、旧道、河川跡、そして古墳と、有意義でエキサイティングなツアーを楽しませていただきました。

また機会があればぜひ参加させていただきたいと思います。