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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

岩戸川緑道 矢崎山 圓住院(庚申塔) 狛江(岩戸・駒井地域)の文化財めぐり・その3

前回のつづき。

土屋塚古墳見学の後は、住宅街の道を南へ向かう。といってもところどころに畑地が残り、”最近”宅地になったような場所も多い印象だった。

建設中のマンションの横に石蔵が。

 

竹を扱う材木屋さんがあった。

 

工事をしている道は少し下っていてその先で上り、奥に見えている”矢崎山”に至る。

 

一番低くなっているところは岩戸川跡の緑道と交差していた。こちらは東側。

 

こちらは西側。

 

そこからゆるく上って、突き当たりで小高くなっている箇所が矢崎山。

 

狛江第三小学校の敷地内になっている。

 

花壇と木々のある場所が周囲から少し高くなっていた。

 

周囲の道は半円形になっている。

 

川に近く、周囲から小高くなっていて、円形の名残があるといえばこれはもう・・・

ツアー主催の教育委員会の方は古墳の可能性を示唆するに留まっておられましたが。

 

あとで調べていたら、古墳なうさんのサイトで詳しい経緯が紹介されていました。

古墳なう 「矢崎山(大塚古墳)」

 

このあと一行は小学校の南側の細道へ。

 

魅力的な暗渠道を横目に見つつ。

 

小学校の敷地に沿って東に進む。

 

その先で歩道の狭いバス道に出て、畑の先を左折。

 

すぐに影向山圓住院に到着。

 

圓住院の隣、柵の向こうは日枝神社

以下はいただいたリーフレットより。

圓住院と日枝神社
圓住院は、山号を影向山、寺号を毘沙門寺という天台宗の寺院で、隣接する日枝神社山王権現)の別当寺でした。もとは毘沙門堂だったようで、元和2年(1616)に喜多見氏が再興したという記録があり、毘沙門堂が圓住院になったものと考えられます。駒井の地名は戦国時代の史料に確認することができ、また、圓住院の墓地から多くの板碑の破片が出土しており、毘沙門堂が営まれたのは、戦国時代までさかのぼると考えられます。
隣接する日枝神社はもともと山王権現と称し、江戸時代の記録によると、木の鳥居が立つ小さな祠でした。現在の日枝神社の参道は、イチョウやケヤキの木が並び、秋には綺麗に色づきます。 

 

この圓住院の山門裏に庚申塔があった。

 

青面金剛とその下に三猿が刻まれているタイプ。

左端は二十三夜塔。

決まった月齢の夜に集まって飲食しながら月の出を待ち、月を拝む月待(つきまち)の講は、真夜中に月が上る”二十三夜”が広く伝わっていたそう。

 

以前にユーカリが丘でも見かけた。

ユーカリが丘散歩・3 千手院 二十三夜月待塔 井野松山1号墳(未)千葉県佐倉市 - 墳丘からの眺め

 

 

圓住院の山門からは北方向へ。途中で岩戸川緑道へ入る。

 

ここから緑道歩き。道の脇には木々が植えられて緑地公園となっている。

 

くねくねと右へ左へと曲り、水の流れになった気分で楽しい。 

以下もいただいたリーフレットより。 

岩戸川緑地公園
かつて狛江のほぼ中央を南北にはしる低地を流れていた野川の流路で、弁財天池の湧水が流れ出て形成された清水川と合流していたと考えられます。江戸時代に六郷用水が開削されると、岩戸八幡神社前の湧水がおもな水源となり、六郷用水からの分水が流れ込んでいました。
岩戸川は岩戸や駒井地域の農業用水として重要な役割を果たしましたが、六郷用水と同じように、農地の宅地化が進むと用水路としての役割を失い、埋め立てられました。岩戸川の跡は岩戸川緑地公園として整備され、かつての水の流れを偲ぶことができます。

 

その先で岩戸川跡と別れる。

 

てわずかな上り道。地図には喜多見緑道とある。

このすぐ先の宅地エリアに、次の目的地・第六天古墳があった。

 

その左手は慶元寺の広い敷地(奥の緑も)があった。

つづく。